第738話 宿題のない男 4

(前回からの続き)


 産婦人科部長は続ける。


「デジタル関係の整理の次は、いよいよ皆が大好きなお金の話だ」

「僕も大好きです」

「要するに、いかに経済的自由を得るかって事よ」


 経済的自由!

 たちまちオレの目の前にユートピアが繰り広げられる。

 南の島のビーチで美女をはべらせてカクテルを飲む、という分かりやすい風景だ。


「先生は色々な投資とかして、不労所得だけで生きていけるようになったんですね! ぜひ僕にも教えてください」

「投資なんかやる暇がないのは先生も知っているだろ。もう60代も後半になっているのにまだ産直やらされているんだから」


 産直ってのは産科の当直の事。

 そもそも赤ん坊ってのは人の都合と関係なしに生まれてくるし、緊急帝王切開だっていつあるか分からない。

 そういう事態に備えてウチの病院では産婦人科医が24時間常駐しているわけ。

 当然の事ながらマンパワー不足になるので、部長先生まで当直要員にされてしまっている。


 最初は「ワシみたいな年寄りに無理させて倒れたらどうするんだ」と言って産直ローテーションに入るのに抵抗したのだそうだ。

 でも「病院で当直していればこそ、先生が倒れた時にも即座に対応できますから」とかいう屁理屈で押し切られたのだとか。


 話を経済的自由に戻す。


「先生の想像しているのはワシが土地や株で大儲けしている姿だろ」

「違うんですか?」

「そうなりたいとは思うけど、ワシの言う経済的自由の意味はちょっと違っているんだ」


 南の島で遊んで暮らす以外にどんな意味が?


「不労所得で悠々自適という前にワシらの前にはいくつかのバリアが存在している」

「バリア?」

「まずは何をもって経済的自由というのかという共通認識だ」

「働かなくても不労所得だけで食べていける事ではないのですか?」

「そりゃあちょっと違うだろ。分かりやすい形で働いていないというだけで、財産管理ってのも労働の一形態だとワシは思うけどな」


 確かにオレの患者の中にも家賃収入だけで生活している人がいるが、修理の手配や入居者のトラブル対応で結構忙しそうにしている。

 あまり財産が増えすぎてしまうと、その管理だけで精一杯になってしまうので、サラリーマンを辞めざるを得なくなったそうだ。


「結局、人間は何らかの形で働くわけだから、その事も含めてお金関係の事を苦痛に感じるかどうかってのが大切だとワシの考えよ」

「なるほど。『莫大な財産の管理を誰かがやってくれて、自分は使う事だけ考えていればいい』って人はごく僅かしか存在していないって事ですね」

「さすがに先生は察しがいいな。地球上に何人もいない存在を目指しても仕方ないだろ、ワシら庶民は」


 ここはちょっと反論しておこう。


「でも、先生はいつもベンツで出勤しているじゃないですか。それを『ワシら庶民は』と同意を求められてもちょっと説得力がないように思うんですけど」

「あんなもん、自分で運転しなくちゃならん間は庶民だろ。金持ちには専属ドライバーがいるんじゃ……ないのかな」

「確信を持って言えないところが庶民ですね、納得しました」


 この際、庶民論争はどっちでもいい。

 大切なのは経済的自由についての部長先生の考えだ。

 それを聴かせてもらおうじゃないか。


 知らず知らずのうちにオレは身を乗り出していた。


(次回に続く)




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る