第735話 宿題のない男

 病院のエレベーターに乗ろうとしたら薬箱くすりばこ満載の台車を押している人がいた。

 産婦人科の部長だ。

 薬箱といっても、エルネオパとかソルデムとか。

 要するに輸液が入っていた箱だ。

 宅急便の箱くらいのサイズなので荷物を詰めるのにちょうどいい。


 考えてみれば3月は異動の季節。

 だから薬箱の中は部長室にあった本がぎっしり入っているのだろう。


「おっ、先生は異動でしたか?」


 オレが尋ねると部長先生からは思いがけない返事が返ってきた。


「いや、引退だよ」

「引退? 異動でなくて」

「もうね、フリーターになろうと思っているんだ」

「じゃあすっかり仕事を辞めてしまうんですか?」

「いや、週2回くらいのアルバイトはしようと思っているんだけど」


 週2回程度のアルバイトでも食べていけるくらいは稼げるだろう。


「どこかに所属していなかったら不安な事はありませんか?」


 この業界、公的病院を65歳で定年退職したとしても、そのあとは民間医療機関で70歳とか75歳くらいまで働いている人が多い。

 中には死ぬまで働く人もいる。

 なんせ慢性的な医師不足なので、どこでも引く手あまただ。


「医者といってもずっとサラリーマンだったから、不安がない事もないけど、それ以上に期待の方が大きいね」

「期待?」

「『宿題のない人生』だよ、キミぃ」


 宿題のない人生!

 なんという甘美な響き。


 たしかにオレの人生は宿題に追われてきた。

 宿題というものに苦しめられ始めたのは小学生の時だ。

 特にオレにとって最大の問題は「夏休みの友」というやつ。

「あれをしましょう、これをやってみましょう」と毎日毎日、オレたち小学生に指図してくる。

 だからクラスでは「夏休みの敵」と呼ばれていた。

 楽しいはずの夏休みを憂鬱にしてしまう存在であり、蛇蝎だかつのごとく嫌われていたのだ。


 実のところ、オレはあれが夏休み期間内に終わったためしがない。

 夏休みが終わりそうという頃になってようやく取り掛かる。

 だから8月31日まで夏休みがあったとして、終わるのは9月2日か3日頃だ。


 ああいうものを考えた奴は「宿題をやらせないと夏休みの間に子供が馬鹿になる」とでも思っていたのだろうか。


 若い医師連中によると、最近の公立小学校ではえて宿題を出していないそうだ。

 そもそも教育熱心な地域では、小学校の先生も子供たちが自分のやりたい勉強を自分のやりたい方法でやることを奨励している。

 親も学校は社会性を学ぶところであると割り切っているそうだ。

 だから勉強を習うのは塾、しくは親自身が教えているのだとか。

 その方が、教師も宿題の採点に時間を取られることもないし、子供たちも「夏休みの敵」に苦しめられることもない。

 皆、自由に勉強してちゃんと医学部や東大に進んでいる。

 Win-winとはこの事だろう。 


 話を産婦人科部長に戻す。


 オレはえて尋ねてみた。


「先生の言う『宿題のない人生』というのは具体的にどのような状況をさすのでしょうか?」


 すると部長先生は待ってましたとばかり持論を展開し始めた。


(次回に続く)

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