第732話 役所に行く男 3

(前回からの続き)


「おおー! 先生のお陰で元気になったあ」


 そういいながらオレはビヨーンと立ち上がった。

 その場で走る真似をする。


「悪魔おじさんは先生に手を握ってもらうと復活するんです!」


 そう言いながらオレは先生に近づく。


「ギャーッ、駄目だー!」

「ずるいー!」


 ガキどもが大騒ぎだ。


「黙れ、お前らが静かにしないと悪魔おじさんはまた先生の手を握っちゃうよ」


 この年齢の男の子の初恋の相手は例外なく保育園の先生だ。

 何十年も前にオレも幼稚園児だったから手に取るように分かる。


「手を離せー!」

「やめろーっ」


 と、その時……


「412番、412番でお待ちの方、3番の窓口へどうぞ」


 ふとオレは現実に引き戻された。


 悪魔おじさんの妄想はここまでだ。

 今日は医療費助成支給の申請に来たんだった。


 オレは3番窓口に行って申請書を出す。

 担当の初老男性の表情がかすかに曇ったのをオレは見逃さなかった。


 明らかに「ややこしい書類を持ち込まれてしまった」という顔だ。


「あの、お医者さんの意見書とかそういうのは持っておられますか?」

「意見書? ホームページにはそんなもの持って来いとは書いてなかったのですけど」


 すると名札に「任用」とある男性は席を立って奥に引っ込んだ。

 引き出しを開けたり閉めたりして何やら探している。


 その間にオレはファイルの中から重度障害者医療証と後期高齢者医療被保険者証を準備しておいた。


「それでは……っと、身体障害者手帳をお持ちでしょうか?」


 そっちから来ましたか。

 もちろんシュッと障害者手帳を出す。


「あと領収書と保険証と……医療証でしたかね?」


 オレにいてどうする。

 でも、シュッシュッシュッと出してやった。


 男性は他の職員に確認したり本庁に電話したりして汗だくだ。


「今回申請にお見えになったのは御本人でしょうか?」


 オレが身体障害者でも後期高齢者でもないことは見ればわかるだろう。

 そもそも身体障害者手帳の写真とは顔が違うじゃないか。


「本人が書いたものを代わりに持ってきたという形でどうですかね。なんせ寝たきりなんで」


 そう言いながら申請者のところに本人の名前を記入した。


 なんだかんだで30分近くかかってようやく書類一式が受理された。


「どうもややこしい書類を持ち込んですみませんでした」


 オレは男性をねぎらった。


「いえいえ、そんな事はありません」

「最初から本庁に行った方がよかったのかな」

「そうですね。向こうは専門の人間がいるので」


 とはいえ、専門の人間だと「委任状を持ってこい」などとややこしいことを言われた可能性もある。

 頭がボケて寝たきりの人間が委任状なんか書けるわけがないだろう。

 杓子定規しゃくしじょうぎに解釈すると「この人は委任状が書けません」という医師の診断書が必要になるのか?


 本人の医療費助成を本人の口座に振り込んでもらおうってんだ。

 委任状や診断書なんか勘弁してくれ!


 結局、こういった書類作成も大人の対応が必要ってことだな。


 それにしてもマイナンバーカードに何もかも紐づけしてもらって簡単に済ますということはできないのかね。

 デジタルなんとか改革ってのはこういった足元から手をつけるべきだと思うんだけど。


 そういやオレの従妹いとこが自治体で紐づけ担当の仕事をしていたらしい。

 ヤケに個人情報管理にうるさい連中のためにシステム整備が前に進まなかったそうだ。

 ついに彼女は怒って「紐づけをするかしないかは個人個人の選択にしましょう!」とやったとのこと。

 その結果、住民の97%が自分の個人情報の紐づけを希望したそうだ。


 まともな神経をしている人が多くて良かったじゃないか。


(「役所に行く男」シリーズ 完)


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