第709話 左翼から転向した男

 昔は左翼だったけど転向して保守派になったという人間は沢山いると思う。

 メディアにはそんな論客ろんきゃく跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている。


 共産主義は理想的な思想かもしれないが、普通の人間はそんなに立派ではない。

 だから欲にまみれた資本主義の方が人間の身の丈にあっている。

 それが現在のオレの考え方だ。


 そんなオレにも左翼にかぶれていた時があった。

 小学生の時だ。


 当時のオレの「親友」の1人が百科事典だった。

 全部で何巻あったのかよく憶えていない。

 たぶん20巻と30巻の間だったと思う。


 地理や歴史から天文や算数まで。

 この友達はオレの疑問に何でも答えてくれた。


 今にして思えば百科事典というのは書いた人の個性が出る。

 当時の社会情勢のせいか、地理の巻はソ連を礼賛れいさんしていた。


「ソ連では農業や工業について5ヵ年計画を立てて実行しています」

「今期は1年前倒して目標を達成しました」


 それを読んだ小学生のオレは感動した。

 ソ連だ、ソ連しかない!


 別に資本主義を嫌っていたわけじゃない。

 でも、共産主義とか社会主義とかいう理想社会に憧れた。


 ところが、そんなオレが転向するキッカケがあったのだ。


 小学校6年生の時だったと思う。

 父親の本棚にあった「誰も書かなかったソ連」という本がオレを変えた。

 そこに描かれていたのは理想国家とは程遠い社会の姿だ。

 並ばないと買えない低品質の商品。

 モラルの崩壊した市民生活。


「みんな、目を覚ませ」

「これがソ連の現実だ!」


 本はオレたちにそう訴えかけていた。


 今でこそ共産主義国家というのはそんなもんだろう、と皆が知っている。

 でも当時は初めて出版された暴露本だった。


 ショックを受けたオレは左翼から転向して保守派に……



 そして、数年後。


 めでたく大学受験を終えたオレは医学生として新たな生活を始めることになる。

 が、驚いた事には少なからぬ同級生がすでに大卒だった。

 3割程度とはいえ、かなりの存在感だ。

 中には40代の人もいて、まだ10代だったオレは戸惑うばかりだった。


 この人たち、世代的には学生運動を経験してきたのだろう。

 発言が左寄りの人が多かった気がする。


 なにか揉め事があったときに「共産主義だったら皆が平等でうまく行くんだけどな」と悔しそうにつぶやいた年上の同級生がいた。


「皆が公務員って事ですよね?」


 オレがそう尋ねると、その同級生は「そうだ、皆が公務員なんだよ!」と我が意を得たりと言わんばかりに表情を輝かせた。


「そうするとお役所仕事になってしまって誰も働かなくなるんじゃないですか」


 10代でありながら何とれた発言!

 でも「誰も書かなかったソ連」にはそんな記述があったのだ。


 彼は何も言わずにオレから離れていった。


 別に論争したいわけじゃない。

 小学生の時に共産主義に失望させられた寂しさを理解してもらいたかっただけだ。


 今でもオレは資本主義が共産主義より優れているという気がしない。

 ただ、資本主義というのは人間の欲望を駆動力にした上手うまいシステムだと思う。

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