第692話 エンレストをのむ男

 前々回の「ナナちゃん人形の女」は、降圧薬のエンレストの医薬品説明会の話だった。

 では、エンレストとはいかなる薬なのか?

 実際に自分でのんでみた医師の話を紹介したい。


 この先生、色々な薬を自分でも試してみる好奇心旺盛な人だ。

 名前を仮に香輝心こう きしん先生としよう。

 こうが苗字で輝心きしんが名前だ。


 初老にさしかかっている香先生はかねてから高血圧に悩んでいた。

 色々な薬をのんでみたが、今ひとつ血圧が下がらない。

 自らの血圧の絶対防衛ラインを140/90としていたが、どうしても140台とか90台とか、微妙に高くなってしまう。

 仕事でストレスがかかっている時なんか上が160を超えたり、下が100を超えたり、困った状態が続いていた。

 こんな事では患者に指導するどころではない。


 香先生が最新の降圧薬、エンレストの事を知ったのはごく最近だ。

 レジデントたちの「エンレストって良く効きますよ」という声に背中を押されて他の医師に頼んで処方してもらい自分でものんでみた。


 ちなみにエンレストの作用機序さようきじょを物凄く簡単に言うと、アンギオテンシンIIの阻害による血管拡張作用とナトリウム利尿りにょうペプチド作用による体液貯留抑制によって血圧が下がる、ということになる。

 要するに血管をひろげて血液を減らすと言う事だ。

 確かに理屈から言えば血圧は下がることになる。

 が、利尿作用があるという事は、夕食後や寝る前に服用したりすると、排尿のために一晩に何度もトイレに行く事になるんじゃなかろうか。


 で、香輝心こう きしん先生は実際に自らの身体で試してみた。

 寝る前にエンレストをのんでみたのだ。


「香先生、夜中のトイレはどうでしたか?」


 興味津々なオレは香先生に尋ねてみた。


「それがなあ、夜中にトイレに行きっ放しよ」

「実際には何回くらい行かれたんでしょうか」

「午後11時頃に寝て、その後、トイレのために起きたのは午前1時、2時、3時、4時、5時くらいだったかな。最初だけ2時間空いていたけど、その後は1時間おきになっちまった」

「そうするとトイレのために5回も起きたということですね」


 そんなにトイレに起きたりしたら寝れたもんじゃない。


「翌日は眠くて仕事に差し支えたんじゃないですか?」

「もちろん休みの前日にのんだんだけどな」


 この辺はさすがに抜かりが無い。


「驚くべきは体重だよ」

「体重?」

「毎朝はかっているんだけど、1日で1.3キロも減っちまった」

「そんなに! じゃあダイエット効果もあるってことですか」


 オレの驚く顔をみて香先生は苦笑する。


「単に水が抜けただけだから」

「でも実際に体重が減ったわけですよね」

「大切なのは脂肪が減るってことだろ、しっかりしてくれよ」


 確かにそうだ。

 オレとした事が、素人みたいな質問をしてしまった。

 水が抜けて体重が減ったからといって、ダイエットに成功した事にはならない。


 あとの疑問は2つある。

 1つ目は実際に血圧が下がったのか。

 もう1つは、朝に服用すれば夜中のトイレを減らすことができるのか。


 香先生の答えはそれぞれ「イエス!」と「微妙」といったところ。


 つまり、血圧の方は抜群に下がり、絶対防衛ラインより10くらい下になっている。

 そして朝食後にエンレストをのんだら確かに夜中のトイレは減った。

 それでも5回が2~3回に減った程度だ。


 製薬会社によれば、続けてのんでいるうちに以前のペースに戻るはず、とのこと。

 以前の香先生の夜中のトイレは1回あるかどうか、といったところだったのでそこまで戻れば上等だ。


 それにしても新薬を患者に投与する前に自分で試してみるという香先生の心掛けは立派なものだ。

 でも、自らに薬を処方するのは御法度だ。

 それが通るのだったら麻薬でも何でも無制限に自分に処方することが可能になる。


 何事も用意周到な香先生の事だから、試したい薬があったら同僚の医師に処方してもらうのだと思うけど。

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