第691話 境界知能の男

 その昔。

 大変な乱暴者らんぼうものの患者がいた。

 40歳くらいの男だ。


 この患者、交通事故で入院中の救命センターを夜中に抜け出した事がある。

「大きな取り引きやからな、俺が立ち会わなアカンねん」というのがその理由だった。

 戻ってきた彼のわけを聞いていたスタッフたちの頭の中に浮かんだのは、港の倉庫街に集まる黒塗りの車と黒づくめの服装の男たちだ。

 取り引きのブツは金塊か違法薬物か?



 なぜかこの乱暴者が退院後にオレの外来に通院するようになった。

 目が見えにくいとか脳が膨張ぼうちょうするとかイライラが抑えられないとか。

 何しろ訴えが多彩だった。

 たぶん頭部打撲による愁訴だろうと思う。


 頭だけでなく心にも不調がありそうだったので近所の精神科クリニックにも診てもらうよう依頼した。

 驚いたのは診察後の返書の中にあった「軽度知的障害があると思われます」という文言だ。


 少々乱暴者だけど普通に会話のやり取りのできる人間が軽度知的障害とは!

 専門家の言うこととはいえ「それは本当か? オレにはそう思えないんだけど」という思いもずっとぬぐえなかった。


 あ、そうそう。

 この人の仕事は特になし。

 同棲している彼女が働いて稼いでいる。


 会話の中に兄貴分とか舎弟とかいう言葉が頻繁に出て来るので、そっち系の取引が本業といえるのかもしれない。



 さて、最近になって境界知能という言葉をチラホラと耳にするようになった。

 IQでいうと、70未満がいわゆる知的障害、85~115が平均的知能と定義されることが多いが、その間が境界知能ということになる。

 つまり、IQ 70~84というあたりを指す。


 おそらく会話は普通にできるし字の読み書きもできる。

 しかし比喩的な表現は理解できず、額面がくめん通りの意味に取ってしまうのではなかろうか。

 そして、込み入った議論をしたり、長い文章を読んで理解したりするのは苦手なのだろう。

 ネットなどでも、文脈から判断することなく文章の一部だけを切り取って批判するような人がいるが、彼らはこのカテゴリーに入るのかもしれない。



 割合からすると境界知能の人は人口の14%いるそうだ。

 実に7人に1人なので、我々も日常的に遭遇していることになる。

 ちなみに IQ 70未満の知的障害は人口の2%、IQ 85~114 の平均的知能は人口の68%になるそうだ。


 かの乱暴者の場合、精神科医によって軽度知的障害とされた。

 軽度知的障害の定義は IQ 50~69 となっている。

 が、オレの印象ではそこまで IQ が低いわけではなく、今になって思い返すと境界知能だったのではないかと思われる。

 そう考えると会話の内容が幼く感じられるところだとか、色々なトラブルを起こしがちなところだとか、すべて辻褄つじつまが合う。


 オレは誰に対しても無意識のうちに平均的知能として接している。

 だから当初はこの乱暴者に話を合わせるのが難しかった。

 しかし、境界知能という言葉を知ってからは対処の仕方を工夫している。

 最近になって徐々にコミュニケーションが成立するようになってきた。



 が、ある日の事。

 検察からオレに照会があった。

 この患者を収監しゅうかんするにあたって医学的な注意事項を教えて欲しい、とのこと。

 収監するというのは、刑務所に入れる、という意味だ。


 何かやらかしたってわけだな。


 正確には、この人の行っていた違法行為の1つが露見した、という事なのだろう。

 これまでにも服役経験があるらしいし。


 そう言えば「刑務所生活ってのはつらいわけ?」と訊いた事があるが、「無茶苦茶つらいですよ、先生!」と言っていた。


 こういう人の行動規範は善悪よりも損得なのだろうと思う。

 だから「社会のルールを破る人間には刑務所が待っているぞ」と教えた方が良いんだろうな。

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