第687話 腰痛に苦しむ男 4

(前回からの続き)


 娘たちは手術室前の待合スペースにいた。

 80歳の患者の娘だから2人とも50歳前後だ。


「今、手術が終わりました」

「長い時間ありがとうございました」


 娘たちは交互にオレに頭を下げる。


「傷口を開けてみたんですが、これといって水漏れの部分が見当たらなくて」

「じゃあ漏れていなかったんですか」

「間違いなく漏れてはいますが、人間の目で見えないほどの小さな孔が開いていたんだと思います」


 昔、オレが研修医だった頃、「血の道、水の道」という格言を習ったことがある。

「血液の漏れはいずれふさがるが、髄液ずいえきの漏れは決して自然に塞がることがない」という意味だ。

 だから、何らかの形で修復をしなくてはならない。


「それで目に見えない孔を塞ぐために、フィブリン糊というものでシールして、傷口をビッチリ縫い直しました」

「ありがとうございます」

「ただ、2つばかり頭の隅に入れておいていただきたい事があるんですよ。後で御本人にも説明しますけど」


 術後に何が起こるかを全てを予測して説明するのは不可能だ。

 でも起こりそうな事は言っておいた方が良い。

 患者も安心だし心構えもできる。


「1つはしばらく顔が腫れるかもしれない、ということ」


 前額部の皮下を剥離しているので水が溜まってお岩さんみたいになるかもしれないし、血が溜まってパンダみたいになるかもしれない。

 実際にそうなってからあれこれ説明しても言い訳にしか聞こえないが、あらかじめ言っておけば、患者の方も「なるほど言われていた通りだ」と納得できる。


「もう1つは縫合糸痕ほうごうしこんといって縫った痕が残るかもしれないということなんです」

「そのくらいはいいですけど」

「少しずつ消えていくのですが、オデコの事なんで、もし気になるなら1年ほど様子を見てから形成外科に修正してもらいましょう」


 という事で、取り敢えず手術は終わった。



 先に述べたように、腰痛がなくなっているのに気づいたのは、カルテへの記録を終えて家路についた時だった。

 これだけアレコレ考えて手術したり説明したりしていたら、自分の腰が痛くなっている暇もない、というわけだ。


 腰痛の無い状態がずっと続けば有難いのだけど。


(「腰痛に苦しむ男」シリーズ 完)

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