第686話 腰痛に苦しむ男 3

(前回からの続き)


 前に行った手術の創部をメスで切る。


 皮膚を開くとともに水が出てきた。

 皮下に溜まっていた髄液ずいえきだろう。


 僅かに混濁しているようにも見える。

 感染しているのだろうか。


 一部を綿棒に沁み込ませて培養に出した。

 本当に感染しているなら細菌が検出されるはず。


 直下のバイオペックスはやや黄色味がかった漆喰しっくいのように見える。

 目を皿のようにして確認したが何処から水漏れがしているのかは分からなかった。


 根本的にやり直すべく、バイオペックスを直下のチタンプレートごと除去することにした。

 チタンプレートは5ヶ所をネジでとめている。

 ネジ回しをつかって外しにかかったが、溝にバイオペックスが入り込んでいるせいか、うまくドライバーがネジ山を捉えることができない。

 レジデントの古跡こせきくんがラスパトリウムを使ってネジの溝からバイオペックスを掻き出す。


「ん、何とか回りますよ」


 そう言って古跡くんはドライバーを回し、最初のネジをうまく抜いた。


「やけに上手うまいなあ、先生は」

「いやあ、それほどでもありませんよ」


 オレなら早々にあきらめていたはず。

 でも、彼は1本ずつ丹念にバイオペックスを除去してネジを回した。

 バイオペックスの詰まったネジを外すという、他に使いようのない技術ではあるけれども、誰でも何かしら得意な事はあるもんだ。


 オレは時々考える。

 江戸時代に生まれてしまったF1ドライバーってのはどんな一生を送るのだろうか、と。

 人並外れた能力があっても生かしようがない。


 それはともかく。

 チタンプレートを取り除いてみると、頭蓋骨の孔であるバーホールには綺麗にバイオペックスが詰まっている。

 真っ白だし、どこからも髄液が漏れているようには見えないし。


「どうする、これも取ってやり直すか?」

「何となくこのままにしておきたい気がしますね」

「オレもそんな気がするんだ」


 オレたちは迷った。

 バイオペックスを取り除いて全体をやり直すか、この部分だけ何らかの方法で修復するか。


「結局、髄液漏れ対策を優先するか感染予防を優先するかって事ですよね」


 古跡こせきくんの言ったことは本質を突いている。

 バイオペックスをそのままにしておくと感染には弱いが髄液漏れはおそらく予防できるだろう。

 逆にバイオペックスを除去すると感染には強いが髄液漏れの予防には不安が残る。


 どちらも一長一短だ。

 オレたちは直感を信じることにした。


「このままにしておくか」


 とりあえず短期的な髄液漏れを予防するためにフィブリンのりでバイオペックス周囲を固めた。

 その上で皮膚を2層に縫合する、いつもよりも緻密ちみつに。

 皮膚は特に念入りに外反がいはんするように合わせた。

 そうすると皮膚が強固についてくれるはず。


 たった1時間半の手術とはいえ、いくつかの決断をしなくてはならなかった。

 もうアドレナリン全開だ。


 鎮静のかかっている患者を古跡くんに任せてオレは待っている家族に説明に向かった。


(次回に続く)

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