第662話 白菜に倒された男 3

(前回からの続き)


 白菜はくさいを見て倒れた患者は、再び主婦業に取り組んだ。

 会社に行かない限りは調子がいい。


 外で働く奥さんのための弁当作りにも精が出る。

 何しろ弁当ってのは世界に誇る日本の文化だ。


 あの小さな空間に広大な宇宙が表現されている。

 そう言ったのはドイツ人医師だ。

 彼は長く日本に住んでいたので、日本の文化や習慣にも造詣ぞうけいが深い。


 弁当なんて、オレたち日本人には普通の事だけど……

 留学中のこと、アメリカ人の同僚のランチボックスをのぞいたらフライドチキンが2本入っていただけだった。

 同僚は美味おいしそうに食べていたが、見てはならないものを見てしまった気分だ。

 日本人の弁当に注ぐ情熱は世界に比類なきものだと思う。

 もっと誇っていい。


 ついでにこんな事を思い出した。

 これも在米中、アメリカ人の友人の家に招かれたときの事。

 男女同権だフェミニズムだと話が盛り上がっていたら、いつの間にか食べるものがなくなった。

「ちょっと借りるわね」と妻が台所に立ち、友人宅の冷蔵庫の中の材料でチャチャッとおつまみを作ったのだ。

 当然、日本人のやることだから皿の上に綺麗に盛り付けてある。

 それを見てさっきまで口角泡こうかくあわを飛ばせながら議論していたアメリカ人の奥様方が沈黙した。


「凄い……どうしたらこんな事ができるの?」

「私、なんだか主婦を名乗るのが恥ずかしくなってきた」


 おつまみを作るのも自己表現の一種だってわけだ。



 話を患者に戻す。


 この男性、ずっとメンタルをやられていたが、家事の方は徐々に進歩したそうだ。

 最初は奥さんが帰ってきてから夕食の準備を始めていた。

 でも、最近は奥さんの帰宅時間に合わせて準備を終えているのだとか。


「それ、凄いじゃないですか!」


 オレは心から賞賛した。


「それにね、最近は家内が白菜はくさいを貰って来ても平気になったんですよ」


 なにっ、白菜に倒されなくなっただと!


「以前は白菜を持って帰られたら『これでオレに何か作れというんか』とか『料理が制限されるじゃないか』とか、そんなネガティブな事ばっかり考えてしまっていたんですけどね」


 理解できない発想だけど、さえぎらずに続けてもらう。


「今はね、『ラッキー!』と思うようになりましてね。白菜、大根、菊菜きくな、白ネギ……もう怖いものは何もありませんよ」


 そういって「ガッハッハ!」と笑った。


 奥さんによれば、この患者が喜んで話をする相手はまだ限られているのだそうだ。

 オレとかメンタルクリニックの先生とかには、話を聴いてもらいたくて仕方ない。

 が、奥さんの兄弟と話をするのはまだ難しいのだとか。


「調子良く話できる相手をですね、1人ずつ増やしていくのがいいんじゃないかと思いますよ」


 そう言ってオレはアドバイスした。

 メンタルの回復ってのは、歌の文句じゃないけど、まさしく「3歩すすんで2歩さがる」だと思う。


(「白菜に倒された男」シリーズ 完)


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