第661話 白菜に倒された男 2

(前回からの続き)


 この男性患者がオレの外来に来るのは2ヶ月に1回くらいだ。

 ずいぶん調子が良くなってきたので、職場復帰することにした。

 メンタルクリニックからは、「ちょっと早いんじゃないか。もう少し慎重にしたら」と言われたそうだ。

 でも、それを振り切っての職場復帰。


 上司も周囲も皆が気遣ってくれた。

 最初は補助的な仕事からだ。

 スムーズに復帰できたので、徐々に調子が出てきた。

 以前より調子いいくらいだ。


「メンタルクリニックの先生は心配しすぎたったのかも」とすら思える。

 が、そうではなかった。


 次の異動で別の支店にうつることになった。

 決して左遷させんとか閑職かんしょくではなく、むしろ責任あるポジションだ。

 若い頃に経験したことのある部署でもあり、自宅からの通勤も十分に可能だったので、本人は張り切って赴任ふにんした。


 が、出勤できたのは最初の1日だけ。

 2日目からは登校拒否ならぬ出勤拒否状態になった。

 外来でみる患者の表情はすっかり沈んでいる。

 自分で自分が情けない、そんな顔だ。


 もちろんメンタルクリニックからは再び「3ヶ月の休業を要する」という診断書が出された。

 どんな重要な仕事をしていたのか知らないが、今は休むのが1番。

 再び、家で食事を作ったり洗濯をしたりの生活に戻る。


「もう会社をめようかと思っているんですよ」

「それも1つの選択肢ですね」

「独立してやっていくのもいいんじゃないかと」


 幸い、仕事の合間に国家資格を取っていたそうだ。

 会社の法務部にいながら司法試験にも受かったとか、そんなイメージを思い浮かべてもらったらいい。

 健康な時なら独立するのもアリだと思う。

 が、心のやまいにかかっている時にそれはどうなんだ。

 でもオレは外来では否定的な事は言わないことにしている。


「将来的には退職も考えるとして、今は主婦業に専念すべきでしょうね」

「もう会社に行ったら、色んな事を思い出してしまって」

「新しい赴任先ふにんさきでですか?」

「若い頃にいた事があるので初めてではないんです。で、その頃の嫌な記憶がよみがえってくるんですね」


 何事もネガティブに考えてしまうらしい。


「食事の準備をして奥さんの弁当まで作ったら、それだけで凄いことですよ」

「それがですね……この前、白菜はくさいを見て倒れてしまったんです」

「えっ」


 白菜に倒されたって。

 何ですか、それ?


「実は家内の両親が野菜を作っていましてね」

「ええ」

「時々、実家に寄って家内が白菜や大根をもらってくるんですよ」


 話の先が見えない。


「若い頃に家内の親とは色々あったもんですから」

「はい」

「白菜を見たらそれを思い出して倒れてしまったんです」


 白菜に倒されたのか!


「『そんなもの、家に持って入るな!』と言われたんですよ」と奥さんは困惑している。


 白菜に罪はなかろう。

 でも、心がんでいるときはこういう発想になるのかもしれない。


 オレはかける言葉が見つからなかった。


 幸い、夫婦はいつもオレの外来の後にメンタルクリニックに寄っているそうだ。

 こういう時に専門家はどんな対処をするのだろうか。

 次の外来の時にでも患者を通じて確認してみよう。


(次回に続く)

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