第660話 白菜に倒された男 1

「先生、電車がホームに入ってくる時にですね。なんだか吸い込まれそうな気がするんですよ」


 そうオレに打ち明けたのは50代の男性患者。

 名前を大津波おおつなみ哲平てっぺいさんといい、頭部外傷後遺症でオレの脳外科外来に通っている。

 勤め先は誰でも知っている有名企業だ。


 横でうなずいているのは外来に付き添ってきた奥さん。

 でも、ニコニコ笑っている場合ではない。


「紹介状を書きますから近所のメンタルクリニックに行ってください。今日、必ず」

「今日ですか?」

「そう、自宅に戻る前に受診してください。お願いします!」


 オレは夫婦に懇願した。

「吸い込まれそう」ってのは、いわゆる希死念慮きしねんりょってやつだ。

 このままうっかり家に帰したら、飛び降りたり首を吊ったり、何をしでかすか分からない。

 だから、必ず精神科医に診てもらう必要がある。

 それも今日中に。


 夫婦はオレの頼みを素直にきき、帰りにメンタルクリニックに寄ってくれた。

 処方されたのは少量の抗うつ薬と睡眠薬だ。

 それで随分楽になったという。


 メンタルクリニックでは「休業を要する」という診断書が出された。

 それも、景気よく3ヶ月も。


 オレなんか休業の診断書を出すとしても精々1ヶ月だろう。

 やはり餅は餅屋。

「自分は3ヶ月間休んでいいんだ」と正当化された事も精神に良い影響を与えたのかもしれない。


 次回、オレの外来にやってきた時には晴々はればれとした表情になっていた。


「家ではどうしておられるんですか?」


 オレは自宅での様子を尋ねてみた。


「最初は何もできなかったんですけど、最近は家事をするようになりました」

「素晴らしい!」

「いえいえ、外に出るのはちょっと怖いですね」


 同じようなこもりでも色々ある。

 オレから見たら、この人のように家事をする引き籠りは立派だ。

 年齢、性別にかかわらず大抵の引き籠りは何もしない。


 ニートの中年息子をかかえて母親が働きながら家事もやっている家庭も沢山ある。

 働かない一人息子は一体何をしているのか。

 多くは何もしていなかったり、終日ゲームをしていたりする。


「自分はダメな人間だ」と自らを客観視できているならまだマシだ。

 母親に働くように言われて逆ギレする馬鹿もいる。

 せめて家事くらいして母親に少しでも楽をさせてやれよ。


 診察についてきた息子にオレは軽く説教することもある。

 さすがにオレに対して逆ギレすることはないが、大量の言い訳を聞かされる。

「仕事がない」とか「目が悪い」とか「中学生の時にイジメにあった」とか。


 イジメって、それ何十年前の話なんですか!

 思わずそう怒鳴りたくなる。

 が、言っても仕方ないので黙っておく。


 話を大津波おおつなみさんに戻そう。


「家事といっても色々あると思うのですが、何をしているのでしょうか」

「食事の準備ですね。それと家内が働いているので弁当も作っています」


 奥さんに弁当まで作るとは。

 偉い、偉すぎる!


「あとは掃除と洗濯くらいです。それ以上はまだ出来ません」

「それだけやったら立派な主婦ですよ。そうですよねえ、奥さん」


 そう言いながら奥さんの顔を見る。

 でも、彼女は同意してくれない。


「私から見るとまだまだです。もっとスーパー主婦になって欲しいし」

「欲しいし?」

「いつ仕事に戻ってくれるのかなあって思うんですよ」


 いやいや、それダメっしょ。

 スーパー主婦やら職場復帰やらを求めたりすると電車に吸い込まれてしまうんだから、この人。


 オレは時間をかけてそのあたりの事を御夫婦に説明した。

 メンタルクリニックからの診断書は3ヶ月でも、実際に職場復帰できるのに1年かかる事もある。

 1番大切なのは電車に吸い込まれないことだ。


(次回に続く)

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