第651話 手足を伸ばす男

「その御主人、今頃は家に帰って手足を伸ばしているだろうな」


 オレがそう言うと診療看護N P師の幸村武美ゆきむらたけみさんが相槌を打つ。


「きっと自由を満喫しているんでしょうね」



 事の発端は今朝にさかのぼる。

 自宅で転倒して救急外来に搬入された高齢女性。

 股関節付近を痛がったが、レントゲンを撮っても骨折はなさそうだった。

 念のためCTを撮影した上で放射線科と整形外科に確認したが、両方とも「骨折は見当たらない」という返事だ。


「単なる打撲なので帰宅でいいでしょう」と言ったら、本人・家族に抵抗された。

「骨が折れていなくても動けないんだから入院させろ」とのこと。

 高齢の亭主も自分の事で精一杯で介護をする余力なんかどこにも残っていないとか。


 確かにそれもそうだ。

 だから動けるようになるまで入院、ということにする。


 入院が決まると、患者の前では大人しくしていた亭主が陰で猛然と不平不満を言い出した。


「ワシはこれまでアイツにこき使われてきた」

「婿養子やからといって軽く扱われたんや」

「この際、どっかの施設に放り込みたい」


 色々と言いたい放題だ。

 その台詞セリフがまた細かく看護記録に残されている。

 亭主も担当ナースも大真面目なのだろうが、読んでいるこちらには喜劇にしか思えない。


 確かに奥さんに支配されてきたんだろうと思われるフシもある。

 というのも、病室に案内された奥さんが「旦那を呼んでくれる? 色々と用事があるから」と言い出したからだ。

 目撃者によると、まるで使用人扱いだったらしい。


 問題はこの先だ。

 いくら亭主が「施設に入れる」と言っても奥さんがすんなり賛成するとは思えない。

 これに娘や息子が加わって、すったもんだが起こるに決まっている。


 我々医療機関側の人間としては、家族間の人間関係に巻き込まれるのは単なる時間の無駄。

 そんなところで消耗したら本業ができない。


 そんな事をツラツラ考えていたら思わずポロッと本音が出た。


「やっぱりリハてんかな」


 ちなみにリハ転とはリハビリ病院への転院の事だ。


「もう少し時間をかけてリハビリも頑張っていただいた方がいいですしね」


 診療看護N P師の幸村さんも賛同してくれる。


「家族間のゴチャゴチャはリハビリ病院でやってもらおうか」

「それがいいと思います」


 彼女もオレと同じ事を考えていたようだ。

「もう少しリハビリを続けましょうか」とは、なんと美しい響きの言葉だろうか。

 それを発した人間の腹の中は真っ黒だけど。


「おぬしわるよのう」


 オレは思わず幸村さんの顔を見て言った。


「先に転倒した方が施設送りにされるみたいですね、あの夫婦の場合は」


 彼女は涼しい顔でそう言った。


「『こけたら負け』ってやつだな、これは」


 後に名言となった「こけたら負け」の生まれた瞬間だった。

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