第646話 壺の好きな男 3
(前回からの続き)
「では、これまで私がした説明を今度は私にしてみて下さい」
オレは夫婦にそう言った。
「それは無理よ」
「患者っちゅうのはね、お医者さんの言うことは全部信頼しとるんやからね」
夫婦はそれぞれにオレに抗議した。
「信頼してくれているのなら
オレは話を
医学部時代、オレたち学生に口頭試問をした教授の気持ちはこんな感じだったのだろうか。
「専門的な事は難しくてわからへんし」
患者はさらに抵抗する。
「ダメですよ、分かる努力をしないと。御自分の身体でしょう? それにさっき『前の病院の先生は何も説明してくれなかった』って言ってたじゃないですか! 少なくとも私は一生懸命説明しましたよ」
「お医者さんの言うことは信頼しているし」
オレの言うことに賛同するかどうかは、まず理解した上での事だと思うけど。
「信頼する前に、まず理解してください」
「……」
「まずは私が言ったことを理解して、その上で賛成か反対かを決めてください。何も理解せずに賛成も反対もないでしょう」
「そんなん言われたって」
「決して難しい話をしているわけではありません。誰でも理解できるように説明したつもりですよ」
次第に夫婦の反論がなくなっていく。
「まさか、今日も家に帰って娘さんに『何も説明がなかった』などと言ったりしないでしょうね。そんな事を言われたら私としても
「いや、そんな事はないけど」
「じゃあ、娘さんに説明できるようにキチンと理解してください。それが出来るまでは家に帰すわけにはいきません」
「ええーっ!」
「当たり前じゃないですか。患者さんは私以上に真剣になってもらわないと」
「真剣に聞いているけど」
「なら、もう1回、最初から話をするので、キチンと聴いてください。最後にもう1回テストをするので、私が『合格!』というまで終わりませんよ」
もう夫婦は絶望的な表情だ。
でも、オレもいい加減に済ますつもりはない。
キチンと病状を理解して、それを家に帰って娘に説明するってのが目標だ。
それから30分、オレは紙に文字を書き、図を描きながら繰り返し説明した。
キーワードはダットスキャン、パーキンソン病、薬剤性パーキンソニズムの3つだけだ。
この3つがどのように関係しているかを理解して他人に説明できればそれでいい。
何度も説明した
患者本人はいつまで経っても理解ができない。
しまいに「ワシは認知症かな?」とか言い出した。
「認知症じゃありません。単に真剣さが足りないだけです」
こんな簡単な事が
でも、オレも80歳になったらこうなるのかもしれない。
実際、今でも新しい医療機器の操作方法なんか、なかなか憶えられないし、すぐに忘れてしまう。
結局、夫婦のうちの1人が合格ということで、もうオレも熱血指導を終えることにした。
おそらく奥さんの方も次回の診察時にはすっかり今日の内容が抜けてしまっているだろう。
こういった病状説明に何の意味があるのか、自分でもよく分からなくなってきた。
ところで、患者の歩行障害の原因は何だったのか?
それについては、オレなりに診断し結論を出した。
が、その一部始終をここに書くには余白が狭すぎるので割愛したい。
まるで数学者のフェルマーみたいだけど。
ということで夫婦はヨレヨレになって帰っていった。
患者の方は「怖い先生や」と言いながら。
奥さんの方は「今度は私も診てもらおう」とか
振り返ってみたら、オレの診察手順や説明の順番にも問題があったのかもしれない。
今になって思えば、こういう方法の方がスムーズにいったのかも……
まずダットスキャンを見て「少なくともパーキンソン病ではありませんな」と言う。
次に「でも薬剤性パーキンソニズムの疑いは残っています。ダットスキャンでは診断できないんですよ」と続ける。
そして「薬の副作用でパーキンソンが出ることがあるので内服薬を確認しましょう」と言ってお薬手帳を出してもらう。
そうすれば、もう少し省エネで済んだのかもしれない。
とはいえ、パーキンソン疑いの人なんか3ヶ月に1人くるかどうかだし、他院でダットスキャンを撮影してきた人なんか初めてだからな。
うまく説明するのは至難の業だ。
高齢者が理解しやすい説明手順、というのも医療における1つの大きなテーマかもしれない。
(次回は「ベイズ推定」について述べます)
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