第643話 衝撃に備える男 3

(前回からの続き)


 入院の次の日、ルーカスの退院時刻は10時に予定されている。

 だから余裕を持ってオレは7時半頃に出勤した。

 ちょっと早過ぎかもしれないが、遅すぎよりは100倍マシだ。


 病棟に行く前に部屋で電子カルテをチェックする。

 すると前夜の記録に何やら深刻な内容が……


 患者に渡すべき診断書が見当たらないので探し回ったという病棟看護師の記載だ。

 当直師長や病棟当直医や色々な人に確認したが、誰も申し送りを受けていない、と。

 それでカルテ内にあった診断書をプリントして公印を押して患者に渡した、とある。


 何てこったい、患者はまだ退院していないんだぞ。

 日付が合わないじゃないか。

 たとえば12月1日から2日まで入院していたという診断書の場合、その日付が12月1日だと矛盾してしまう。

 だから、12月2日に無事退院できそうなのを確認した上で12月2日以降の日付で発行する必要がある。

 そもそもカルテ内の診断書はまだ作成途中だ。

 書きかけのものを渡されたら患者も困るだろう。


 このような時は電子カルテで診断書を作成した際に、備考欄に「作成途中。退院日に印刷して手渡し予定」とでも書いておかなくてはならない。

 この詰めが甘いと、思いがけない失敗をしでかしてしまう。

 こういう事を学ぶのも研修のうちだ。


 ちょうどいい機会なので研修医の虎川先生に教えておこう。

 ……と、院内PHSに応答がない。

 10時退院予定の患者のために7時半に出勤しているはずもないか。


 仕方ないので、オレは自分で細かい修正を加えることにする。

 それをプリントして病棟に行ったら夜勤の看護師に驚かれた。


「ルーカスさんのために来てくれたのですか!」

「当たり前じゃん。英語のやりとりって大変だろ?」

「助かります」

「早速だけど、ルーカスさんに渡した診断書は作成途中なので差し替えしたいわけ。新しいやつに公印をもらえるかな」

「すぐ行ってきます」


 という事で診断書問題は解決した。


「ところで彼は機嫌良くしているかな」

「爆睡していますね」

「なら良かった」

「後は入院費用の請求書だけど」

「もう渡しています」


 何から何まで手際がいい。


「請求額がですね、30万円くらいになっていたんですけど」

「おおーっ!」


 10万円にはなるだろうと思っていたけど、まさかの30万円でしたか。


 無保険の旅行者の場合は自由診療になるので、いくら請求してもいい事になっている。

 健康保険制度の対象外である交通事故や労災でも同じ事。

 極端な話「支払いは1000万円です」と言ってもいいわけだ。


 が、そんな阿漕あこぎな事をしても仕方ないので、院内ルールとして健康保険で決められた診療報酬の点数で計算することになっている。

 この点数が5000点になった場合、保険診療だと1点を10円で計算するので5万円になる。

 ただし、無保険(自費)、交通事故、労災の場合は1点を12円で計算したり15円で計算したり、病院によってまちまちだ。


 ルーカスの場合、1点を何円で計算したのか分からないが、とにかく30万円になったわけ。

 そしてそれは根拠のある数字なのだ。

 おそらくクレジットカードになるだろうが、果たしてすんなり支払ってくれるのだろうか?


 とはいえ、これはボッタクリでも何でもなく、アメリカでは1桁高い金額を請求される。

 むしろ日本が不当に安いわけだ。


 彼が支払い窓口で文句を言ったら「君の命は30万円より安いのか?」と説得しよう。

 実際のところ、処置が間に合わなかったら死ぬ病気だった。

 救急外来での治療が手際よすぎて三途さんずの川を渡りかけたという自覚すらないかもしれないけど。


「やあ、調子はどうかな?」

「いいよ」


 病室を訪ねたオレにルーカスはさわやかに答えた。


「ごくわずかな可能性だけど48時間以内に第2波が来る可能性がある。だからくれぐれも注意してくれ。日本中どこでもダイヤル119で救急隊が駆けつけてくれる。救急隊員にウチの病院を指定してくれてもいい」

「分かった。ところでゾーテックという薬をいつも持ち歩いているんだけど」

「ゾーテック?」


 ルーカスはバッグの中から薬の箱を出してきた。

 箱には "Zyrtec" とある。

 後で調べてみると、日本語では「ジルテック」と呼ばれている抗ヒスタミン薬だった。

 たしかに「来たーっ!」と思ったときにこの薬をのめば、症状を軽く済ませる事が期待できる。


「なるほど。とにかく、くれぐれも気をつけて旅行を楽しんでくれ」

「ありがとう」


 診断書の差し替えもしたので、残る懸念は支払いの事だけになった。


「彼が無事に退院するまで、オレは病院に残っておくから、何かあったら院内PHSで連絡してくれ」


 そう病棟看護師に告げてオレは自室に戻った。


 早速、院内PHSが鳴った。

 なんだなんだ、ルーカスが支払いを渋っているのか?

 そう思ったら研修医の虎川先生だ。


「出勤が今になってしまいました、すみません」


 おいおい、10時退院の患者を診るのに9時半に出勤してどうする!

 そう思ったが、もうオレは疲れていて説教する気力もなかった。


「もう手続きは全部終わって経緯いきさつをカルテに書いておいたからさ、それを読んでおいてよ。それと病室に行ってルーカスさんと親しくお話でもしておいてくれ」

「分かりました」

「あと、話をした内容はカルテに書いておくこと。先生への超勤支払いの根拠になるからな、忘れるなよ」

「あっ、そうですね。書いておきます!」


 休日出勤したら電子カルテに爪痕を残す。

 虎川くんにとって、本日学んだ1番大切な事がこのことかもしれない。


 帰宅する前にオレは休日窓口に寄って事務当直に確認することにした。


「どう、ルーカスさんは支払いをしてくれた?」

「ええ」

「ずいぶん高い金額だったけど」

「こちらも心配していたんですけど、あっさりカードで支払ってくれました」


 良かった、良かった。


 万一、英語でまくてられたらどうしよう、と少しばかり心配していたけど、それは杞憂きゆうに終わった。


 これで「ミッション終了!」ってところだな。


(「衝撃に備える男」シリーズ 完)


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