第635話 生老病死を語る男 8

(前回からの続き)


 フレイルについての市民講座。

 オレのあとには理学療法士や栄養士などの講演が続く。

 これらを聴いていると「なるほど」という事も沢山あった。

 今回はそれらを披露したい。


 まずは理学療法士による介護動作の基本。


 身体の不自由な患者を動かすのは難しい。

 ベッドから起こしたり、車椅子に移乗させたり。

 大きな男性が小さな女性を動かすならまだしも、講師として登壇したのは華奢きゃしゃな女性理学療法士だ。

 彼女が寝ている大柄の男性を片手で「ひょい」と起こす様なんかは手品を見ているみたいだった。

 これらは西洋医学つまりサイエンスに基づくものなので、すべて説明可能、再現可能なものだそうだ。


 その理論的背景から講演は始まった。


「患者さんの姿勢を安定させたり、力を使わずに動かしたりするのは『重心、重心線、支持基底面』の3つの面で考えます」


 まずは患者が転倒しないように安定させる方法だ。

 彼女によれば、重心が低く、支持基底面が広いほど安定する。


 重心を定義すると「身体のすべての質量を1点で代表させる場合の空間的な位置」という事になる。

 そんな難しい事を言わなくても、何となく感覚で分かる。

 たとえば子供は頭が大きいので重心が高く、だから転倒しやすい。


 支持基底面というのは「体重を支えるために必要な床面積」の事を言う。

 立っている人であれば、2本足を閉じて立つより開いて立つ方が支持基底面が広くなるので安定して、転倒しにくくなる。

 さらに、立っている時より座っているときの方が支持基底面が広くなるので安定するのは当然だ。

 仰向けに寝たときなんかは身体の後ろ半分全体が支持基底面になり、かつ重心が低いので、限りなく安定している。


 重心線というのは重心から垂直に下に向かって下した線の事を言う。

 この重心線が床と交わる点が支持基底面の中にあれば安定、外にあれば不安定となる。


 で、ここからが本番だ。

 患者を転倒させないようにするためには重心を低く、支持基底面を広く、重心線を支持基底面の中に入れて安定させる。

 逆に患者を意のままに動かすのは不安定にさせる事が大切だ。

 つまり、重心を高く、支持基底面を狭く、重心線を支持基底面の外に出してしまうと不安定になり、逆に言えば介助者が操作しやすくなる。


 たとえばベッド上に仰向けに寝ている患者をベッドの縁に座らせるのはどうしたらいいのか。

 まずは仰臥位から側臥位にするが、ちょっと丸くなってもらった上で介助者は肩甲骨や腰骨などの硬いところを持って横に起こす。

 次にベッドの縁から両下肢を垂らす。

 そして下側になった肩甲骨を手ですくってちょっと前方に引っ張り気味にすると重心線が支持基底面の前方にはずれるので力を入れずに起こすことができる。

 実際、彼女は簡単に患者の身体を起こしてしまった。


 このような理論に基づいた身体操作というのは科学的であり、理屈さえ分かれば誰でも出来る。

 これぞ西洋医学、お見事!



 一方、栄養士の方はバランスの取れた正しい食事についての講演だった。


「たとえば、皆さんの今日の朝食がコーヒーとトーストだったとします。どうすれば正しい食事にすることができるでしょうか?」


 彼女は身近なところから話を始めた。


「ここに目玉焼きとちょっとしたサラダを加えると、主食・主菜・副菜というバランスの取れた食事になります」


 なるほど、なるほど。


「さっきの昼食がきつねうどんだけだったとしましょう。この場合は主菜と副菜に欠けるので、肉うどんにした上でほうれん草のおひたしを加えると完璧です」


「昨日の夕食が御飯と焼き魚と漬物だったとしましょう。この場合は主食と主菜だけなので、そこに野菜の入った味噌汁を加えて副菜にするといいですね。そして漬物は塩分が多いので摂り過ぎないようにしてください」


 その人の食習慣を否定するのではなく、その習慣を生かして工夫するのがポイントみたい。


 このアドバイスは脳外科や総合診療科の外来でも使えるぞ。

 なんせ「患者が1番知りたく医者が1番苦手な質問が食事に関する質問だ」と言われるくらいだからな。

 ラミネートした図を作って外来に置いておけばいいかもしれない。


 というわけで、講師としても聴衆の1人としても有意義な市民講座だった。


 我々医師も「病」だけでなく「老」にも立ち向かうべき時代がやってきたというわけだ。

 でも、その前に自らの「老」に対処しなくては……トホホホホ。


(「生老病死を語る男 」シリーズ 完)

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