第628話 生老病死を語る男 1

「先生、来月の市民講座のことなんですけど。そろそろ配付資料の提出をお願いします」


 来月?

 市民講座?

 なんじゃ、それ。


「えっと、テーマは何だったかな」

「『フレイル』じゃないですか、しっかりして下さいよ!」


 地域医療室の担当師長に言われても思い出さない。

 あわててスマホでカレンダーとメールを確認した。


 すると半年ほど前に師長がわざわざアポをとってオレの所に依頼に来ていたのだ。

 言われても思い出さないとは!

 自分自身の物忘れの重症さに愕然がくぜんとする。


 それにしても「フレイル」というのは、オレの全く知らないテーマだ。

 よくこんな知りもしないテーマで引き受けたもんだ、半年前のオレも。


 でも引き受けたからには準備しなくてはならない。

 数人の演者による市民講座。

 オレの持ち時間は30分、対象は高齢者が主体になる。


 ということは、話は単純に、スライドの文字は大きく。

 1枚のスライドはせいぜい5行までにしなくてはならない。


 オレがトップバッターなので、タイトルは「フレイルとは何ぞや?」とした。

 聞き慣れないフレイルという言葉、それを聴いている人たちに具体的にイメージしてもらわなくてはならない。


 タイトルのスライド、自己紹介のスライドの次は「『四苦八苦しくはっくする』という言葉」と1行だけのスライドにした。


 オレも知らなかったのだが、「四苦八苦」の「四苦」は「生老病死しょうろうびょうし」を示すのだそうだ。

「四苦八苦」という言葉も「生老病死」という言葉もそれぞれに知っていたが、この2つが結びついていなかった。


 ちなみに「八苦」とは生老病死しょうろうびょうしに加えて、

愛別離苦あいべつりく:愛するものと別れる苦

怨憎会苦おんぞうえくうらみ憎むものと会う苦

求不得苦ぐふとくく:求めても得られないという苦

五陰盛苦ごおんじょうく:人間の存在そのものの苦

の4つで完成する。


 で、とりあえず四苦である生老病死だ。

 生まれ、老い、病み、死ぬという4つの苦しみ。

 これらの苦しみに対するオレの解釈から話を始めることにした。


 確かに「老・病・死」は苦しみに違いない。

 でも「生まれる」ってのは苦しみなのか?

 普通は目出度めでたい事だ。


 でも、「しょう」というのは「生まれる」じゃなくて「生きる」じゃないかな。

 そう考えると「生きる」ってのは苦しみにあふれている。

 人間関係だとか、お金の心配だとか、つらい事だらけだ。


 オレはいつも外来患者に愚痴ぐちを聞かされている。


 息子が働かない……ばかりか、引きこもっている。

 娘がいつまでっても結婚せず、ずっと親のスネをかじっている。


 この辺は定番だ。


 オレは知り合いからも色々聞かされる。


 何十年ぶりに会った旧知の先生。


「この度は教授就任おめでとうございます!」

「いやあ、ようやく『じゅん』という字が取れたよ」

「いやいや、先生の業績からしたら遅すぎるくらいですよ」


 最初はそんな感じでビールを飲んでいたのだが……

 この教授先生、酔っぱらうにつれて「妹が悪い男にだまされてねえ」と言い出した。


「えっと、妹さんはおいくつなんですか?」

「ちょうど50歳になったところなんだよ」


 いやいやいや、20代の娘ならともかく50歳の妹が騙されたって、アアタ。

 それに相手は妻子ある男なんだそうで、奥さんに知られたら妹さんの方が慰謝料を払う立場になってしまいますよ。


 それにしても、こんなに立派な先生でも苦労はあるわけだ。

「生きる」ってのは苦しいことに違いない。



 別の知り合いからも苦労話を聞かされた。

 こっちは30代の女性だ。


(次回に続く)

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