第627話 排尿時痛の男 2
(前回からの続き)
オレは検査結果を確認した。
尿にはさほど問題はない。
血液検査の方では炎症の程度を示すCRPは前医のものと大きな変化はなかった。
が、もう1つの炎症の
ということは、とにかく前医の抗菌薬が効いて感染が改善しつつあるということだ。
ちなみに前医で点滴したのはセフトリアキソンという広域抗菌薬だった。
なんにせよ抗菌薬が効く病気だということは安心材料になる。
「これは急性前立腺炎だと思います」
「急性前立腺炎?」
「前立腺というのは尿道の奥にあって、たぶんそこが感染して
「治るのでしょうか?」
「おそらく治ると思いますよ。検査結果をみると昨日の点滴が効果を発揮しているみたいですから」
ということで、オレは経口のレボフロキサシンを1週間分処方した。
「今日から毎日1錠ずつのんでください」
「分かりました」
「それで1週間後にまた来ていただけますか。その時点で良くなっているか悪くなっているか、それを判断した上で、次の手を考えましょう。もちろん、すっかり良くなっているのが1番いいのですけど」
患者は帰宅し、オレは前医に診療情報提供書の返事を書いた。
夕方、血液検査の結果を確認する。
込み入った検査は結果が判明するまで数時間かかるので、昼の段階では空欄だった。
オレが見たかったのはPSAの値だ。
PSAは前立腺特異抗原の略で、通常は前立腺癌のスクリーニングに用いられる。
こいつが4ng/mLを超えると前立腺癌の疑いあり、ということで精密検査を行う必要がある。
が、急性前立腺炎を疑う患者の値は一体どうなっているのか、オレはそれを知りたかったのだ。
医師ってのは患者の診療のみならず、自分の知的好奇心を満たす事に夢中になってしまう事が多い。
オレとて例外ではなく、その点では単なる野次馬だ。
とはいえ、患者にとっても自分の病気に医師が
はたしてPSAの値は……145ng/mLだった!
こりゃあ急性前立腺炎に違いない。
綺麗な答え合わせが出来たことでオレは嬉しくなった。
後は処方したレボフロキサシンの効果に期待するのみ。
1週間後、患者は鞄を手に持ちスーツ姿で診察室にやって来た。
その様子を見ただけで、すっかり良くなった事が分かる。
おそらく診察の後に出勤するつもりなのだろう。
聞いてみるとレボフロキサシンをのみ始めてすぐに効果を感じたのだそうだ。
今では完全に元通りになったとのこと。
「お蔭さまで良くなりました。感謝しています」
「後から結果の出た血液検査のPSAの値も異常高値になっていたので急性前立腺炎で間違いなさそうですね」
患者は満面の笑みだ。
が、オレは心の中にひっかかっていることを患者に告げる。
「ただし、1つだけ
「何でしょうか?」
「このPSAの値は前立腺癌でも上昇するのですよ」
「えっ、でも急性前立腺炎だって先生が
「間違いなく急性前立腺炎ですが、その裏に前立腺癌が隠れているかもしれない、ということを心配しているのです」
オレが用心しているのは、いわゆるダブルトラップ、すなわち
病気が2つ重なっていた場合、一方だけ見つけて喜んでいたら他方を見逃してしていた、ということになりかねない。
その見逃した疾患が癌だったら大変な事になってしまう。
「現在のPSAは145で、こいつが1ヶ月か2ヶ月後に4以下の正常値になっていたらそれでOKです。でも、いつまで
「前立腺癌……があるかもしれないのですか」
ここの説明が難しい。
言葉ひとつで患者は絶望の
「99%無いですね、前立腺癌は」
「……」
そもそも前立腺癌は高齢者の病気だ。
40代で罹患するのはレア中のレア。
しかし、現にPSAが上昇している以上、再検査するべきだとオレは思う。
「前立腺癌が100%無いってことを確認するための再検査ですよ。明るく楽しく前向きにお願いします」
そう言ったら患者の表情に明るさが戻った。
ということで、脳神経外科医が生まれて初めて急性前立腺炎に遭遇したというお話だ。
乏しい知識とスマホで何とか決着をつけることができた。
次に急性前立腺炎らしい患者が来たら、今度は直腸診にも挑戦してみるか。
(排尿時痛の男シリーズ 完)
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