第623話 小脳出血の男 2

(前回からの続き)


 オレは先に第8手術室に行って患者の入室を待つ。

 その間にメイフィールドという頭蓋骨固定器の準備をしておく。

 患者は50代の男性、職場で倒れたのだそうだ。


 部屋の外が騒がしくなったと思ったらストレッチャーで患者が入ってきた。

 挿管そうかんチューブを始め、あらゆる管とモニターコードがついている。

 素早く麻酔科医がこれらの整理を行う。

 オレは赤の油性マジックで頭部の3ヵ所にマーキングを行った。

 メイフィールドのピンを打つ位置を確認するためだ。

 こいつがズレたりすると、固定用ピンそのもので頭蓋骨の骨折が起こったりする。

 だから何事も念には念を入れた方がいい。


 いよいよ患者をストレッチャーから手術台にうつす。

 この時に同時に仰臥位ぎょうがいから腹臥位ふくがいにするのだ。

 これには人手が必要で、いつも5~6人がかりで慎重に行っている。


 頚椎の手術と違って後頭下開頭こうとうかかいとうはかなり頭を挙上しなくてはならない。

 手術台のコントローラーを使って慎重に体位を取る。


「皮膚切開は正中一直線でしょうか?」

「いや、逆U字形にしよう」

「逆U字形?」


 通常、後頭下開頭は頭皮の正中を縦一直線に切る。

 これだと皮膚切開の操作は速いが左右に開きにくい。

 だからオレはもっぱら逆U字形の皮膚切開を愛用している。

 少し時間はかかるが左右に開きやすく、見通しのいい手術が可能だ。


 いよいよセッティングが終わり頭皮にメスを入れるだけになった。

 ここでタイムアウトという名の簡単な打ち合わせを行う。

 外回りナース、レジデント、麻酔科医、直接介助ナースが決められたチェック項目に従って確認を行っていく。


 全部の確認が済んだところでオレが付け加える。


「手術の途中で心停止する可能性が十分にあります。その場合、腹臥位なので胸骨圧迫きょうこつあっぱくは難しく、救命するのはあきらめざるを得ません。ただ、術中死ティッシュ・トートは御法度なので、急いで皮膚を閉じて仰臥位に戻し胸骨圧迫をしながらICUに搬入し、その後に死亡確認したいと思います」

「……」


 一同黙っている。


「術中心停止の確率は、半々よりは少し多いんじゃないかと思います」


 誰からも返事がない。


「それでは開始します。メスを下さい」


 いざ皮膚切開。

 後は何も考えなくてもどんどん手術は進む。

 手術を進めながら感じたのは、縦に走行する後頭動脈の枝を切りながらの皮膚切開になるので、出血が多くなるということだ。

 正中切開ならほとんど出血しないので、それぞれの皮切ひせつに得失があることになる、今さらだけど。


 皮弁を尾側に翻転ほんてんし、大後頭孔だいこうとうこうを確認する。

 広大な頭蓋骨が露出されるのは、この皮切のいいところだろう。

 手術用ドリルでバーホールを6ヶ所に穿うがち、これらをつないで開頭する。


 驚いた事にさほど硬膜は張っていない。

 思ったほど圧が高くないのか?


 続いて硬膜を切る。

 後頭静脈洞が発達していたのでこれを絹糸シルクで結紮切断した。


 脳表には血腫が充満しているものの、こちらもさほど腫脹していない。

 ひどい時には歯磨き粉が押し出されるように脳がどんどん出てきて収拾がつかなくなるが、この患者の脳は収まるべき所に収まっている。


 さらにくも膜を切って血腫を抜き、右小脳半球に皮質切開ひしつした。

 脳表から1センチほど奥に進むとイチゴジャムのような血腫に当たった。

 これを吸引管と腫瘍鑷子しゅようせっしで取り除く。


 さらに左小脳半球の皮質にも切開を加え血腫を取り除く。

 さほど血腫除去したつもりはないが小脳が沈んだ。

 おそらく血腫全体の3分の1程度しか除去できていないが、やめるべきタイミングだろう。

 すでに除圧という所期の目的は達した。


 あとは水頭症のコントロールのために、あらかじめ後頭骨に作成しておいたバーホールから左後角穿刺こうかくせんしを行って脳室ドレナージチューブを留置するだけだ。


 そろそろ閉頭という時に応援が駆けつけて来たので、オレは交代して手を下しガウンを脱いだ。

 患者の家族が手術室の前で待っているはずだ。

 途中ではあるが、手術の状況を説明することにする。


(次回に続く)



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