第622話 小脳出血の男 1

 朝から始まった脳動脈瘤クリッピング術。

 オレは助手として開頭と閉頭を手伝っていた。

 いわゆる開閉隊かいへいたいだ。


 と、後ろからレジデントに声をかけられた。


「救急外来に小脳出血が来たんですけど、手術に入ってもらえませんか?」

「今から?」

「ええ、かなり大きいんですよ」


 クリッピング術の閉頭はオレ抜きでも大丈夫だとか。


「8番の部屋で、13時入室です」

「わかった」

「それで手術用顕微マイクロ鏡と外視鏡がいしきょうのどちらを使いますか?」


 いきなり究極の選択か?


 手術用顕微マイクロ鏡は洗濯機くらいのサイズにクレーンのような太い腕のついた器械だ。

 半世紀ほど前に脳外科の世界に導入され、改良が積み重ねられ、現在に至っている。

 狭く深い術野の奥にまで光を届かせ、しかも術者に明瞭な視野を提供するシステムだ。

 もちろん高価なものだからスーパーカーほどの値段がする。


 が、突如、外視鏡がいしきょうなるものが登場した。

 これは釣り竿の先に目玉がついただけのもの。

 極端に倍率を上げた高性能望遠鏡と思ってもらえばいい。

 サッカーのワールドカップで活躍した鷹の目ホークアイ外視鏡がいしきょうの一種だろう。

 術者も助手も3D眼鏡をつかって巨大モニターを見ながら手術する。

 このシステムのいいところは比較的自由に患者の体位をとることができることだ。


 時代は手術用顕微マイクロ鏡から外視鏡がいしきょうにうつりつつある。

 メーカーの中には手術用顕微鏡から手を引いて外視鏡だけに集中する所もあるくらいだ。


 が、オレたち旧世代はあまりにも手術用顕微マイクロ鏡に慣れ過ぎてしまった。

 今さら外視鏡がいしきょうにはうつれそうにない。

 そんな事を頭の中で考えていたら、閉頭中の術者から声がかかった。


「たぶん肉眼操作マクロだけですむんじゃないですか」


 つまり手術用顕微鏡も外視鏡も不要じゃないか、ということ。

 確かにそうだ。

 で、オレはおごそかに宣言した。


「じゃあ『なんちゃって外視鏡』で行こう!」


 途端に手術室が爆笑に包まれた。


「なんですか、それ?」

「多分、肉眼操作マクロだけで大丈夫だろうけど、もし必要ならちょこちょこっと外視鏡を使うって意味なんだけど」

「何というか……先生らしいですね」


 手術室がなごんだところでオレは手をおろした。


「オレ、自らの脱水を補正して血糖値けっとうちを上げてくるから」


 脱水を補正するというのはお茶か何かを飲むという意味。

 血糖値の方は、次に備えてアンパンかお握りを急いで食べて来るという意味だ。


「体位はどうしますか?」

腹臥位ふくがいだ」

「頭はどっちに振ったらいいでしょうか」

「真直ぐ麻酔科側に向けておこう。頚椎けいついの手術みたいに術者と助手が向かい合ってやるからな。外視鏡には背中側からのぞいてもらうとするか」


 脳外科の手術は体位が極めて重要だ。


 ポンと頭だけ置いてあるなら、さほど考えなくていい。

 でも、生身なまみの頭には必ず胴体がついていてオレたちの邪魔をする。

 そこに術者と助手、さらに洗濯機サイズの手術用顕微マイクロ鏡が入るのだからその配置にはいつも頭を悩まされる。


 しかし、洗濯機がいなくなって、代わりに釣り竿の先にとりつけた目玉、つまり外視鏡だけ、というならはるかに話は簡単だ。


 なるほど、これが外視鏡の利点ってわけだ。

 実戦で使ってこそ利点や問題点を洗い出すことができる。


 手術の準備はレジデントたちに任せてオレは電子カルテにログインする。


 画面に表示されたCTには小脳の真ん中に巨大な血腫がうつっている。

 直径は5センチほどもあるだろうか?

 すでに脳幹は押しつぶされており、水頭症もみられる。


 小脳出血は直径3センチ未満なら手術せずに自然吸収を待つ。

 しかし、3センチを超えると生命にかかわってくるので手術して血腫を取り除き、頭蓋骨の一部も外して圧をのがす。

 この患者のように直径5センチだと手術しても救命は難しい。

 手術するかわりに死亡診断書用紙を準備した方が現実的だともいえる。


 が、何事もやってみないと分からない。


 生きて帰るはずの患者が亡くなることもあるが、死んだはずの患者が生き返ることもある。

 それが医療現場というものだ。

 今やるべきことは、あれこれ考えずにやるべき手術を粛々しゅくしゅく遂行すいこうすること、ただそれだけ。


 オレは10分で昼食をすませて第8手術室に向かった。


(次回に続く)


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