第621話 しくじった男

 オレは夢を見ていた。


 妻とどこかへ国内旅行をしている夢だ。


「この下の海沿いの道を車で走ったら気持ちいいんじゃないかな」


 妻にそう言われたオレは旅館の部屋から海に向かって坂を下りた。

 確かに走ったら気持ち良さそうな道がある。

 そこの停留所でオレたちはバスを待った。


 ん?


 車で走るはずが、いつのまにバスになっちまったのか。

 落ち着いて考えたらおかしな事が、夢では辻褄の合わない事が普通にまかり通ってしまう。


 ここで場面が転換する。


 オレは原稿の内容を考えていた。

 ChatGPT に書かせた英文を Grammarly に添削させて……

 などと考えながらトイレで用を足す。


 と、ただならぬ気配に目が覚めた。


「まさか」と思ったら、その「まさか」だった。


 なんと、現実のオレは寝小便をしていたのだ!

 腰のあたりが冷たい。

 これは下着にしみた自らの排泄物のせいだろう。

 といっても断じて便失禁ではない、単なる尿失禁だ。


 慌ててトイレに行って、膀胱の中に残っていたものを排出する。

 そして、パジャマの一部も冷たくなっていたので、取り替える。

 これらの作業を横で寝ている妻に悟られないように暗闇の中でコソコソやった。


 二度寝しようとしたら、敷布団も冷たい。

 仕方ないのでタオルで覆って、その上に寝る。



 思い出してみれば、成人してからの寝小便は何度かある。

 いつも、とてつもないストレスがかかっていた時だ。


 渡米したてで言葉の全く通じない環境に置かれた時とか。

 救命センターに異動になって、毎日のように刺された人やら手足の取れた人やらの治療を強いられた時とか。


 大の大人が寝小便して情けないというより、「寝小便するほど頑張っているオレ、偉い!」と、その時は思った。


 が、今は到底そんな事は思えない。

 ただただ、思い通りにならなくなった自分の身体に愕然とする。



 ふと職業モードに入ってしまう。


「先生、寝ているときに痙攣発作が起きたら、自分では分からないですよね」

「そんな事はありません。分かることも多いですから」

「どうやって分かるんですか?」

「朝起きたときにですね、舌を噛んでいたり、尿失禁していたり、体全体の筋肉痛があったりしますよ」

「うーん、そういう事は経験した事がありませんね」

「なら大丈夫でしょう」


 そんなやり取りを脳外科外来で何度もしてきた。


 ひょっとしてオレはてんかん持ちかな?


 いや、尿失禁以外の症状は全くないから、てんかんではないだろう。

 ということは、生老病死しょうろうびょうしのうちの「病」ではなく「老」の方か。


 ま、起こってしまったことは仕方ないので、受け入れるしかないよな。



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