第616話 発作の出る男 3

(前回からの続き)


 病院には我々夫婦の方が救急隊よりも先に着いた。


 白衣に着替える暇もなく駐車場から救急外来に向かう。

 救急入口には顔馴染かおなじみの看護師が立って救急車を待っていた。


「無理なこと言ってゴメン! よろしく頼むわ」

「先生も大変ですね、日曜の朝から」


 急性心筋梗塞疑い患者の搬入も、ここでは日常風景だ。

 何の緊張感もない会話にかえって安心する。


 ちょうどその時、赤色灯を光らせながら救急車が入ってきた。

 ストレッチャーに乗せられた伯父が救急車から降ろされる。


 そのままオレも救急外来について入り、研修医や循環器内科の震海甲造しんかい こうぞう医師とともに救急隊の申し送りを受ける。


 伯父は早朝の胸痛の後に一旦良くなったものの、再び悪化したところに救急隊が到着したそうだ。

 ただ、その胸痛は救急車に乗った頃から軽快している。


 救急外来のベッドにうつされた伯父は直ちに12誘導心電図をとられた。

 そして震海しんかい医師が心臓の超音波検査エコーを行っているうちに研修医が採血しながらルートをとった。


「うーん、心電図でのST-T変化もないし、エコーでの壁運動の異常もなさそうですねえ」


 震海しんかい医師は釈然としないようであった。


「おっ、ラッキー! ということは攣縮スパスムでしょうか?」


 思わずオレはそう尋ねた。


「かもしれないですが、発症は早朝なんですよね」


 急性心筋梗塞と似て非なる疾患に冠攣縮性かんれんしゅくせい狭心症きょうしんしょうがある。

 これは心臓をとりまく冠動脈が一時的に攣縮スパスムを起こして心筋への血流供給が減り、胸痛や絞扼感こうやくかんを起こすというものだ。

 特に冠動脈硬化が原因というわけでもなく、予後良好とされる。


 急性心筋梗塞と冠攣縮性狭心症の違いは、心筋に回復不能なダメージがあるか否か、だ。

 急性心筋梗塞は時に広範囲の心筋が壊死えしを起こして生命にかかわるが、冠攣縮性狭心症では壊死は起こらない。

 伯父の場合、今のところ心電図と心エコーの両方で心筋壊死の徴候は見当みあたらない。

 あとは血液検査でトロポニンTという心筋しんきん逸脱いつだつ酵素こうそが検出されるか否かが問題になる。

 トロポニンTが基準値内であれば、おそらく伯父は無罪放免になる。

 逆にトロポニンTが基準値より高めであったら2~3時間毎の再検査で数値を追いかけていく必要がある。

 時間経過とともにどんどん高くなるようなら、心筋壊死が進行しているからだ。


 たして伯父のトロポニンTは……基準値内であった。


 ちょうど心臓当直が交代する時間帯になった。

 新たにやって来た循環器内科の準田缶治じゅんだ かんじ医師が心エコーを再検する。

 やはり壁運動の異常はない。


「どうやら大丈夫そうですね。現時点では冠動脈造影カテーテルまでする必要はないと思いますけど、どうしますか?」


 そう尋ねられたオレは伯父に代わって答えた。


「今回は遠慮しておこうと思います。というのも伯父は喘息持ちで、最近になって発作が頻発しているので。もちろん心筋梗塞の可能性が濃厚ならそんなことは言ってられませんけど」


 造影剤が喘息発作を誘発することがあるからだ。

 ここは慎重に行くにこしたことはない。


「分かりました。じゃあ3D-CTAを予約しておくので、後日ゆっくり評価しましょう」


 3D-CTAは造影剤を使ったCTで、冠動脈の状態をかなり詳細に把握することができる。



 ということで一連の騒動が決着した。

 しかも1番いい形で。


 何がどうなったのかよく理解できていない伯父夫婦に、帰りの車の中で妻とオレが交互に説明した。


「『胸にベニヤ板を入れられた』というのは急性心筋梗塞きゅうせいしんきんこうそくという世の中で1番怖い病気の可能性があったのよ。棺桶に片足を突っ込んでいるといっても言い過ぎじゃないわ」


 妻の言葉に伯母が驚く。


「だけど、調べてみたら冠攣縮性狭心症という良性のものだったの。だから棺桶はらなくなったんだけど、ちょっと心配な所が残っているので、また落ち着いて検査しましょうってことになったわけ」


 とはいえ、伯父は自分の事なので心配が尽きない。


「今度また胸にベニヤ板を入れられたみたいになったら、その時はどうしたらいいのかな?」


 確かに患者本人にはそういう懸念が残っているはずだ。


「今日の帰りにニトロペンをもらったと思うんだけど、今度同じような事が起こったらそれを飲んだら治るから。もし飲んでも治らなかったら、また救急車を呼んでちょうだい」


 オレたちは伯父と伯母を送り届けて帰路についた。

 車の中で妻とあれこれ検討する。

 こういう「どこでもカンファ」ができることが夫婦同業の最大のメリットだろう。


 とにかく最悪の事だけは避けることができた。

 これからは喘息発作を始めとした食欲低下や倦怠感など一連の不具合の原因を探して対処するべきだ。

 夫婦で意見が一致し、その時はそれが正しいと思っていた。


 実はこれが大外おおはずしだったのだ。

 その事は後で思い知らされる。


(次回に続く)





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