第611話 血の止まらない男 3

(前回からの続き)


 オレはあわてて術衣スクラブのまま脳外科外来に行った。


「ああ、良かった! もう患者さんたちには帰ってもらおうかと思っていたんですよ」


 外来ナースにそう言われながら診察室に座る。


「いやあ、どうも済みません。ちょっと緊急手術をしていたもんですから」


 緊急手術と外来とでは当然ながら前者の方が優先度が高い。

 そんな事はいちいち説明しなくても理解してもらえるはずだが、年寄りの患者ってのは自分の事で精一杯だ。

「それは大変でしたね。もう私の事は後回しでいいですから」と恐縮する人間は1人もいない。

 何事もなかったように長話ながばなしを始めようとする。

 オレは強引に日常生活に引き戻されてしまった。


 が、オレにとっては手術患者の方が気になる、当然の事だけど。

「はい、次の方。変わりありませんね。お薬出しておきます」と文字通りの3分診療を進める。

 途中で院内PHSが鳴って「今、ICUに入室しました」とレジデントから連絡があった。


「よし、すぐにのぞきにいくから」


 そう言って脳外科外来からICUまで走っていく。



「あちらの部屋です」


 オレの顔を見たICUナースがゆびさすのは1番奥の個室だ。

 モニターを見るとどうやら心臓は動いているみたいだった。

 ベッドサイドでは循環器内科医とレジデントが何やら話し込んでいた。


「どうもお世話になります」


 よく状況が分からないまま、循環器内科医に頭を下げた。

 聞くところによると、患者は子供の頃にファロー四徴症しちょうしょうの手術をしたのだとか。

 ファロー四徴症というのは先天的な心奇形で、しばしばチアノーゼを起こしてしゃがみ込む、というのが特徴だ。

 複雑な心奇形なので手の込んだ手術が必要だったはず。


 循環器内科医によると、この患者の場合、子供の頃の心臓の手術後にも血流短絡シャントは残っていて、しかもその血流の方向が今回の手術の前後で変わってしまっているのだそうだ。


「簡単にいえば、心臓の予備力が足りなかったという事なんでしょうか」

「そうですね。それで術中に心停止したのかもしれません」


 子供の頃の心臓手術が不完全なものだった、と言えばそれまでだ。

 しかし60年前だか70年前だかの水準でいえば最高峰の開心術だったに違いない。

 なんせ患者はこうして80歳近くまで生きているのだから。

 もう誰一人としてこの世に残っていないであろう当時の心臓外科医たちに、オレは敬意を表したい。



「御家族は?」


 オレはレジデントに尋ねた。


「弟さんがこっちに向かっているそうです」

「じゃあ到着したら病状説明するから連絡してくれるか」


 そう言って、また外来に走った。



 3分診療の再開だ。

 患者が何か言いたそうにしていてもすべて無視する。

 とにかく歩いて病院に来ているんだから優先順位は1番下だ。


「最近になって背中がかゆくなってきましてね」

「何、背中がかゆい? それでは次の外来予約をしておきましょう」

「あの、背中の方ですけど」

いているのは10時半と11時ですね」

「皮膚科とかに行った方がいいのでしょうか?」

かゆかったらね、お孫さんに小遣いをあげていてもらってください」

「孫は大学生で忙しくて」

「1万円もあげたら急に暇になりますよ。じゃあ11時で予約を入れておきますね」


 もう無茶苦茶だ。


 そうこうしていたらまた院内PHSが鳴る。

 患者の家族が到着したとのこと。


「じゃあ、お大事に」


 椅子に座ったままの患者を診察室に残して、オレはICUに走る。


(次回に続く)



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