第610話 血の止まらない男 2

(前回からの続き)


 若手スタッフと交代したオレはレジデント2人とともに開頭にかかる。


 バーホールという1円玉サイズの孔を次々に開け、それをクラニオトームという電動の糸鋸いとのこのようなものでつないで開頭する。

 開頭範囲は両手の親指と人差し指でつくった輪より一回り大きいサイズだ。


 開頭すると脳を包む硬膜表面の中硬膜動脈M M Aの一部が破れて出血していた。

 レジデントがバイポーラを使って止血を始める。

 中硬膜動脈が破れても出血は硬膜の外側なので、脳を圧迫することはない。

 しかし、術野が見えにくくなるので、出血は見つけ次第、止めておくのが定石だ。


 と、急に患者の頭が揺れ出した。


 術野の外を見ると麻酔科医が胸骨圧迫、いわゆる心臓マッサージを始めていた。


「あれっ、心停止しましたか?」


 オレはそう尋ねながら素早くモニター画面を確認した。

 さっきまで120程度の心拍数であった心電図モニターの波形が50程度に落ちている。

 一方、動脈圧の方は……フラットだ。


 つまり心臓は電気的に拍動しているが、有効な拍出量を得ることができていない。

 循環血液量が足りないのか、心臓の収縮力が弱いのか。


「もう止血はやめて硬膜を切ろうぜ。どうせ心臓が動いてないんだから出血もしていないしな」

「確かにそうですね」


 オレが声をかけるとレジデントは止血をやめてメッツェンバウムを使って硬膜を切り始めた。

 硬膜の直下にはイチゴジャムのような血腫けっしゅが充満している。

 この血腫が患者の脳を押しつぶしていたのだ。

 そいつを太目の吸引管で吸っていくと脳表が現れてきた。

 残念ながら脳の拍動は皆無だ。


 こうなったら目標を切り替えざるを得ない。


 救命はあきらめて、形をつくって投了とうりょうすることに注力する。

 すなわち、閉創して集中治療室に帰室し、そこで死亡確認を行うことが新たな目標だ。

 なぜかティッシュ・トー術中死トを医師も看護師も避けたがる。


 だから心拍再開させて、もしくは胸骨圧迫を続けながら手術室を出なくてはならない。


「経皮的心肺補助P C P S装置に乗せますか?」


 麻酔科医に尋ねられたが、いくさは明白だ。


「やめておきましょう。とにかくICUまでもたせて下さい」


 そう返事した。


「丸居先生、外来の患者さんたちがかなり沢山待っておられるみたいですけど」


 ICUへの移動の段取りを頭の中で考えていたオレに手術室の外回りナースが声をかけてきた。


「はあ? 今日は休みだよ」

「いや、普通に20人くらいは予約が入っているみたいですけど」

「えっ! 休診にしたつもりが休診になっていなかったのか」


 なんとまあ、外来に患者を大勢待たせたまま悠々ゆうゆうと手術をしていたわけだ。

 知らぬこととはいえ……


「あとを頼むわ。調子にのってひさしの下になっている血腫は取るなよ、出血が止まらなくなったりするからな。硬膜は4ヵ所くらいでとめて、骨は戻さず、皮弁は全層ぜんそうで縫っておいてくれ」

「先生、病状説明ムンテラはどうしますか?」

「準備ができたらオレがするから、連絡してくれ」


 そういって手をおろしてガウンを脱いで、術衣のままオレは外来に向かった。

 もうキャップもマスクもつけたままだ。


 オンライン学会の視聴どころか手術も外来も……って。

 3ヵ所に同時に存在しなければならないのか、オレは!


(次回に続く)

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