第605話 心理的安全の男 2

(前回からの続き)


 オレが学会でもっぱら語ったのは手術における心理的安全についてだ。


 脳外科の手術で最大の山場は何と言っても顕微鏡操作。

 術者が顕微鏡を通して見ているのと同じ景色が手術室内に置かれた4Kの巨大モニターで写されている。

 それを見ながら術者と観客がやり取りするのだ。

 もちろん観客といっても偉い先生からレジデントまで全員が脳外科医だ。

 脳外科を専門にしている人間でなかったら、モニターを見ても何が何だかさっぱり分からない。


 オレが手術をしている間、モニターの前からは好き放題に「アドバイス」が飛んでくる。


「真ん中の血管より向かって左の血管につないだ方がいいんじゃないでしょうか。そちらの方が血流が少なそうですし」


 そう言ってきたのはモニターを見ていたレジデント。

 ちょっと言い過ぎたと思ったのか「すみません」と謝っている。


「いいのよ、いいのよ。オレはさ、『聞く力』については岸田首相にも負けないから」


 そう言いつつ、オレは吻合先を向かって左の細い血管に変更した。


 実際に縫い始めたら助手をしているレジデントにも言われちまった。


「今の針は内膜まで通ってないんじゃないでしょうか」

「そ、そうかな」


 ちょっと狼狽うろたえたが、オレは何食わぬ顔で針糸はりいとを抜いて、縫い直す。

 血管壁は外膜、中膜、内膜と3層になっているが、吻合ふんごうするときは針が全層を正確につらぬかなくてはならない。

 こういう有難いアドバイスを貰えるのも心理的安全性のお蔭だろう。

 何を言われてもオレが気を悪くすることはない、とレジデント達が分かっているからだ。


 そしてオレはできるだけ麻酔科医ともコミュニケーションを図っている。

 かつて自分が麻酔科医だっただけに、こういう情報を入れてもらったら嬉しい、というのが分かるからだ。


 「体感で500mLは出血しています。必要なら遠慮なく輸血してください」とオレが麻酔科医に伝えるのは、カウントと体感で出血量がずれている時だ。

 手術室では吸引された血液量とガーゼでいた血液重量を合計してグラム単位まで正確に出血量をカウントする。

 が、大量出血しているときにはカウントが実際の出血量に追いつかない。

 そういったタイムラグがある時には術者が体感している出血量が大切な情報になる。

 だから、オレはかれなくても自分の感じた事を麻酔科医に伝えるようにしている。

 以前、輸血が遅れて術中に心肺停止を起こした患者がいたからだ。

 遠慮せずに注意喚起しておけばあの悲劇は防げたに違いない。


「そろそろ終わりが見えて来ました」というのは腫瘍摘出の時なんかに麻酔科に伝えている言葉だ。

 だいたい術野というのは真っ赤で、どこがどうなっているのか第三者には分かりにくい。

 そこで、腫瘍が8割ほど取れた時に麻酔科医に声をかける。

 目に見えて麻酔科医の表情が明るくなるのはこんな時だ。

 これは同時に自分に対しても助手に対しても「もう少しだ、頑張ろう」という励ましにもなっている。


「あとは止血を終えたら閉頭に入ります」というのもよく言う台詞だ。

 というのも麻酔科医にとっては腫瘍摘出をしているのか止血をしているのかが分かりにくい。

 腫瘍は取ってしまって今は念入りに止血している段階だ、というのが分れば見通しも良くなるはず。

 そろそろ覚醒の段取りをするか、と麻酔科医も思うに違いない。

 ここがズレてしまうと手術は終わったのに患者が覚醒しない、ということになってしまう。

 麻酔からの覚醒遅延ならいいが、術者の立場としては自分の手術操作が原因で昏睡状態になっているのではなかろうか、と心配になる。

 だから手術の進行状況を逐次伝えることが大切だ。


 結局、そのような形で脳外科医と麻酔科医がやり取りする事が、日々の手術のスムーズな進行に寄与するんだ、とオレは思う。


「実際のところ、レジデントたちも色々と口を出してくるんですよ。私に対しては」


 そう言うと学会場の聴衆からは忍び笑いが聞こえてきた。


(次回に続く)

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