第603話 勝手に間違えた男

 とある学会での事。


 オレは英語発表のセッションでディスカッサントを頼まれていた。

 これは若手医師たちが発表し、その優劣を採点して表彰するというもの。

 内容の良さ、英語のうまさ、質問に対する答え方の3つの軸で採点する。

 そのためにサクラ質問をする役が必要で、あらかじめディスカッサントに各演題を割り振られていた。

 もちろん質疑応答も英語だから準備が大変だ。

 知らない分野を英語で、という二重苦になる。


 オレに降ってきた演題は「single-cell spatial transcriptome analysis でリウマトイド血管炎を調べてみた」というもの。

 そもそもリウマトイド血管炎という病気を知らない上に「シングル・セルなんとか」って、それ何ですか?

 そのままグーグル翻訳にぶち込むと「単一細胞空間トランスクリプトーム解析」という訳になり余計に分からなくなった。


 で、オレなりに勉強した。

 以下、誰にでも分かるように解説したい。


 生物というのはDNAという設計図を細胞の中に持っている。

 これは頭のてっぺんから足の先まで、すべての細胞に共通の設計図だ。

 しかし、体の部位によって個々の細胞の働きは違う。

 つまり元の設計図は同じでも、それぞれの細胞は必要な部分の情報だけを使って自らを構築し働いているのだ。

 このように設計図全体から必要な部分の情報だけを書き写したものをメッセンジャーRNAという。

 で、病人の身体の一部を切り取って、どの細胞にどのメッセンジャーRNAがあるかを調べると、細胞毎の役割が分かるはず。


 今回の研究ではリウマトイド血管炎の血管周囲に集まっている細胞がMMP-1を作るメッセンジャーRNAを大量に含んでいることが示された。

 以前からリウマチ系の疾患では血液中にMMP-3が増えることは分かっていたがMMP-1はノーマークだった。


 以上の結果から以下の事が示唆される。

・血管炎を起こすのはMMP-1という酵素ではなかろうか?

・今回の手法を用いればリウマトイド血管炎を診断することが可能ではないか?

・MMP-1を阻害する薬品をつくれば、リウマトイド血管炎の治療をすることができるのではないか?


 夢がひろがってきたぞ、こいつを質問してやろう!


 そこまで勉強してふと気づいた。

 演者の名前は海井那須子うみい なすこという。

 これ、ひょっとして医学部でオレと同級生だった海井山彦うみい やまひこくんの娘か?

 彼とは医学部の6年間だけでなく、その前の予備校の時から一緒だった。


 見れば見るほど顔が似ている気がした。

 それに柔道をしていた海井くんはガッシリした体格だけど、彼女もガッシリ系だ。

 そんな事を言ったら失礼だけど。


 そこで発表後の彼女に声をかけた。


「ひょっとしてお父さんは海井山彦先生?」


 すると彼女は笑いだした。


「それ、学生の頃からよく訊かれるんですけど、違うんですよ」

「なんだ、名前だけでなく顔も似ていると思ったんだけどな」

「父は普通のサラリーマンです」


 人違いでしたか、すみません。

 もちろん顔だけでなく体格も似ている……などとは言わなかった。


 それにしても彼女の発表は素晴らしかった。


 最新の手法を用いた先駆的な研究内容であったばかりではない。

 英語も上手い!

 決して流暢りゅうちょうではないものの分かりやすいプレゼンだった。

 そしてオレの質問に対しても完璧に答えてくれた。

「どうにかしてリウマトイド血管炎の診断や治療をできないか、と思って今回の研究を始めたんです!」と、むしろ我が意を得たりといった反応だった。


 慢性関節リウマチの治療成績がこの10年間で飛躍的に向上したのに対し、リウマトイド血管炎は今なお難病だ。

 彼女のような若い医師たちが、そのパワーでリウマトイド血管炎の牙城を崩してくれることを期待したい。


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