第601話 排尿する男 4

(前回からの続き)


 ここまで北目卓馬きため たくま先生は、定年直前の自らの不具合として、頻尿ひんにょう、居眠り、物忘れをあげた。


「実はもう1つあったんだよな」


まだあるのか!

年は取りたくないもんだ。


つまずきやすくなったんだ」


 何と、合気道をしていた北目先生にして転倒の恐怖にさらされていたとは!

 いやむしろ、合気道の心得があればこそ、些細な違和感に気づいたのかもしれない。

 というのも、オレが北目先生と一緒に働いていた時のこと。

 知らないうちに北目先生が後ろに立っているのにびっくりしたことが何度もあった。

「足音を立てずに歩く北目先生」と皆に恐れられていたのだ。


 せっかくなので転倒の恐怖を語ってもらった。


「なんでもない所で床にこけてしまって左の肘と腰を打ったわけ」

「先生でもそんな事があるんですね」

「それ以降、歩くたびに股関節の大転子だいてんしからクリック音がするからさ」

「クリック音?」

「最初は剥離骨折でもしたのかと思ったんだけど、それにしては全く痛くないから変だなと思って」


 骨というのはちょっとしたヒビが入っても無茶苦茶痛い。

 逆にいえば、痛くない骨折というのは珍しい。

 あるとすれば、脊椎の圧迫骨折くらいだろう。

 それもごく一部だけど。


「『大転子、クリック音』というので調べてみたら、弾発股だんぱつこっていうのがヒットしたんだ」

「ダンパツコ?」

「バネゆびならぬバネまたとも呼ばれるらしい」


 そのまま放置していたらいつの間にかクリック音がしなくなったそうだが、年を取ると何が起こるか分からない、という事を改めて思い知らされた。


 すっかり意気消沈した北目先生、定年退職後の生活やいかに?


 実は週2回ほどの非常勤の外来の他は晴耕雨読せいこううどくの日々だそうだ。

 誰かに何かを命令される、ということが極端に減った。

 理不尽な宿題もない。

 それで、以前からやりたいと思っていた医学の勉強と英語の勉強を始めたのだとか。


「医学の勉強? それ、現役の時にはやらなかったんですか」と尋ねられることと思う。


 だから、忙しすぎて勉強なんかする暇なかったんだって!

 オレも似たような境遇だからよく分かる。


 引退してようやく自分の時間を持てたから勉強する事ができるようになったのだそうだ。


「引退したらもう勉強する必要ないじゃないのでは?」という質問もあるかもしれない。

 が、勉強ってのは必要があるからやるというものではない。

 知識欲を満たすのが最大の目的だ。

 趣味と呼んでもいいかもしれない。


「改めてじっくり教科書を読んでみると、これまでの自分の不勉強を思い知らされたよ」


 特に脳神経外科の周辺領域である神経内科とか救急とか一般内科とか。


「それはもう、これまで知らずに診療してきたのが恐ろしくなったね」


 加えて英語の方も勉強しているのだそうだ。

 とりあえずの目標は字幕なしで洋画を見て理解すること。

 その1つ前の段階として英語字幕で洋画を見ているのだとか。


「教授になるような偉い人は若い時から臨床も研究も英語も同時並行でやるんだろうけど、わしみたいな凡人は引退後に1つずつしか出来ないよ」

「いやいや医学と英語の勉強をやっているから、1つではなく2つでしょう」

「そういやそうだな。先生、いい事を言ってくれるじゃないか!」


 よく、定年退職したらすることがなくなった、というサラリーマンの話を聞く。

 それ、一体どうなっているわけ?

 オレには全く理解ができない。


 これといった趣味がない人は勉強をしたらいいと思う。

 

 また、「学校の勉強が社会に出て何の役に立つんですか?」という中高生にはこう言いたい。


 勉強は道楽だ!


「昨日理解できなかった事が、今日は理解できるようになった」ということは、ゲームを1つずつクリアする事と同じように最高に達成感のある事だと思うのだけど。


 オレ、間違っているかな?


(排尿する男 完)

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