第600話 排尿する男 3
(前回からの続き)
定年間際によく居眠りするようになった
彼の話はまだ続く。
「居眠りだけじゃなくてな、物忘れもひどかったんだ」
物忘れ?
オレもそろそろ危ないけど。
「人に言われたことばかりじゃなくて、自分で言ったことも忘れていたりするわけよ」
「時々あるんじゃないですか、それは」
オレがそう慰めても北目先生は納得しない。
「いよいよ本格的にボケが来たのかもしれんって心配になったよ」
「ということは、今は改善したんでしょうか?」
「そういうことだ」
北目先生によると、定年間際というのは無茶苦茶忙しかったのだそうだ。
長い間、同じ病院に勤めているとあれこれ頼まれる事も多い。
どんな書類でもすぐに処理する、というのを
それが間違いの元だった。
というのも初期研修医のレポートのチェックが多すぎた。
以前は1人の研修医あたり30ちょっとだったのが、現在では50以上になっている。
すぐにチェックして返却した先生には、すぐに新しいレポートが補充される。
なかなか返却しない先生には補充されない。
そうすると素早くチェックする北目先生にはポジティブ・フィードバックがかかってしまい、やればやるほど仕事が増えるという悪循環になってしまった。
もちろん、研修医レポートのチェックだけが北目先生の仕事ではない。
外来や手術のかたわら、報告書やら目標設定シートやら、作成しなくてはならない書類が沢山ある。
また学会発表の指導や職員採用の面接担当者なんかも回ってくる。
というか、土日のどちらかは必ず病院の仕事が入ってしまう。
かくして北目先生は
チェックの済んでいない研修医レポートも、書きかけの診断書も、提出すべき目標設定シートも机の上に山積みのまま。
にもかかわらず、地域医療室から「来週お願いしていた健康セミナーの配付資料の締め切りが過ぎているのですが……」という連絡が来たらしい。
「健康セミナー? そんな約束していたかなあ」
おもわず
「何を言ってるんですか。半年も前にお願いしましたよ!」
「あの時は驚いたよ。頼まれた事をすっかり忘れていたし、思い出すことすらできなかったからな」
「結構重症ですね、それは」
オレがそう言うと北目先生の愚痴が始まった。
「でもな、病院内での半年前といったら一般社会では3年ほど前の感覚だろ。憶えていなくても仕方ない気もするんだ」
しか~し。
このような物忘れの日々も定年退職したらちゃんと元に戻ったそうだ。
「要するに忙しすぎたわけよ、あの頃は」
忙しすぎると記憶が抜ける、という現象はオレも経験したことがある。
「今になってようやく自分のペースを取り戻すことができてハッピーだね。ついに狂気の世界から人間の世界に生還したって気分だ」
北目先生は心からそう思っているようだ。
オレも
何でもホイホイ引き受けていたら自分が壊れてしまう。
そういや看護職員採用面接試験ってのがあった。
「日程が全部で4回あるのですが、先生が空いているのはどの日でしょうか?」と尋ねられて「1つはダメだけどあとの3日は空いてるよ」と馬鹿正直に答えたら、3日間とも面接官を頼まれてしまった。
面接のためにつぶれた休日は永遠に戻ってこない。
よく「代休を取れ」と言われるが、誰かが代わりにオレの外来をやってくれるわけではないので、それなら休まずに出勤して少しでも片付けておいた方がマシだ。
だから、自分を大切にしないといけないな、オレも。
(次回に続く)
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