第599話 排尿する男 2

 部長室の洗面台で排尿する北目卓馬きため たくま先生については「第590話 排尿する男」で述べた。


 今回は続きを語る。


 北目先生は65歳の定年が近づくにつれてどんどん疲れやすくなったそうだ。


「病院でも椅子に座って気がついたら寝てしまっていたりするんだ」


 オレもよくやらかすが、座ったまま15分ほど意識を失ってしまい、ふと目が覚めたときに「ここは何処どこ、私は誰?」となってしまうわけ。

「うわっ、遅刻する!」と思った後に「病院で居眠りしていたのか、よかったあ」と安堵あんどする。



わしなんか、昼御飯を食べると知らない間に寝てしまっている事が多いんだよな」

「北目先生、それはひょっとして postprandial 食後  hypotension 低血圧 -related 関連  syncope 失神  じゃないんですか?」

「何? そのポストなんとかやらは」


 脳外科医はこの疾患についてあまり詳しくないが、総合診療科ではよく見るものだ。

 というか、よく救急外来に運ばれてくる。


 高齢になると食後に血圧がストンと下がるようになりがちだ。

 これを postprandial 食後  hypotension 低血圧  という。

 血圧が下がるばかりか失神してウンともスンとも言わなくなるので、周囲の人が慌てて救急車を呼ぶわけだ。


 もちろん単なる失神発作だから、いつまでも昏睡こんすいというわけではない。

 救急隊が着いた頃には目が覚めていて、本人も周囲もバツの悪い思いをすることがある。


 北目先生の場合は、この "食後低血圧関連失神" が勤務先病院で起こるものだから、ある意味では自己完結してしまっているのかもしれない。

 真相は闇の中だけど。



わし、休みの日は1日中寝ているんよ」

「まさか、朝から晩まで寝ているんですか?」

「そんなわけないだろ!」


 さすがに日中ずっと寝ているわけではなかった。


「朝4時頃に目が覚めるからさ、7時頃の朝食まで仕事するわけよ」


 休日に家で何の仕事をするんだと思われるかもしれないが、これは北目きため先生だけのことではない。

 学会の準備とか原稿作成とか、患者の個人情報が入っていない仕事は自宅でも行うことができる。


「それで、朝御飯を食べたら昼前までひと眠りするのよ」

「朝食をったら、まずは睡眠ですか?」

「情けないけど、そういうことだ。よく住民説明会や議会の席で居眠りして怒られている人がいるだろ? 儂なら絶対やっちまうと思うな」


 北目先生は朝食後だけでなく、昼食後も寝ることが多かったそうだ。

 かくして、休日の睡眠時間を合計したら10時間くらいになってしまう。

 若い頃は合気道をしていて体力には自信のあった北目先生だが、年には勝てない。


「ウイークデイも朝4時に目が覚めるからさ、家で一仕事してから出勤し、病院でも続きをやるんだけど」

「早いですね」

「そうすると、午前9時から外来や手術が始まる時には結構疲れていて大変なんだ」

「そりゃそうでしょ」

「昼過ぎに一段落ついたらもう1日が終わった気がするから、人に話しかけられるのもつらくて」


 それ、単に全体が前にズレているだけなのでは?


「普通なら9時5時のところ、朝の4時から仕事が始まっているんだから12時終了でいいんじゃないですか?」


 オレがそう言うと北目先生は我が意を得たり、という表情になった。


「現役時代はそれに気づかなくて。仕事をめてから体力に余裕ができたんだ」


 今では合気道はしていないが、ジムに泳ぎに行っているそうだ。


 同門の大先輩の中には75歳くらいまで現役で働いていて引退直後にポックリ亡くなるという人が目立つ。

 それはそれで立派ともいえるけど、60歳代のうちに自由な時間と体力を確保することが大切なのではなかろうか。



 最後に、昔、北目先生に聞かされた名言があるので紹介しておきたい。


 若い時には金がない。

 金が出来たら時間がない。

 両方出来たら若さがない。


(次回に続く)




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