第591話 手足の動かない男

詐病さびょう……ではないかと思うんですけど」


 神経内科の仕手潔して きよし先生が切り出した。

 オレたちがヒソヒソと話し合っていたのは救急外来の部屋の外だ。


 言われてみて「やっぱり!」という思いと「いや、糖尿病性神経症では?」という思いが交錯こうさくする。


「神経症状に再現性がないんですよ」


 仕手して先生はそう付け加えた。

 つまりさっき左手が動かないと言ったのに、こちらが診察してないときに左手で鼻の頭をいたり服のすそを引っ張って直したりしている。

 医師というのは見てないふりをしながら患者を観察しているものだ。


「糖尿病性神経症……という可能性はありませんか?」


 オレは念のためにいてみた。


「それだったら手足の先から感覚障害が始まるんですけどね。あの人、最初は太腿ふとももからだ、と言っているんで。ちょっと合わないかな、と思うんですよ」


 仕手先生の説明は明快だ。


「それにヘモグロビンA1Cの値も6.5で。糖尿病があるにしてもちょっと軽すぎるでしょう。これが10以上だったら可能性もあると思いますけど」

「ただ、元々がひどい糖尿病だったのに、留置場に入ってから正しい食生活になって数値が良くなってしまった、という事も考えられますよね」

「元が12くらいだったのが、今は6台になったということですか?」

「そうです。血糖値が急に補正されたときに糖尿病性網膜症が悪化することがあるので、神経症についても同じような現象が起こるのかと」

「うーん、その可能性がないわけでもないですが。あの人を治療するってのも二の足を踏んでしまいますよね」


 あの人ってのは、今まさに留置場から救急外来に連れてこられた患者だ。

 何をやらかしたのか、もうかれこれ4ヶ月ほど留置場に入っている。

 が、徐々に手足が痺れて動かなくなってきた、ということで受診したのだ。


 いかに犯罪者といえども、体調が悪いといえば警察も医療機関の受診を手配せざるを得ない。

 護送車か何かに乗せられて、数人のいかつい人たちに囲まれながら当院の救急外来にやってきたのだ。


 その太った中年男は普通といえば普通だった。


 オレはどんな時にも先入観なしに診察することを心掛けている。

 が、病歴聴取しながら何となく感じるあやしさをぬぐうことができなかった。


 無理に病名をつけるなら糖尿病性神経症だろう。

 しかし、オレ1人で判断するのも荷が重い。

 それで、客観性を担保するために神経内科医の仕手先生にも診察してもらったのだ。


 オレがかすかに持った違和感を仕手先生は大いに持ったようだ。


「仕手先生。じゃあ可能性を詐病9割、糖尿病性神経症1割として着地点をどうしますかね」


 オレは仕手先生に尋ねた。


「糖尿病はこのまま様子を見てもらいましょう。針筋電図をするにしても、あれだけ太っていたら神経まで針が届かないから、どっちみち今はできないですね」

「分かりました。説明は私の方からしましょうか?」

「そうしてもらえると助かります」


 オレたちは救急外来に戻り、警察の人たちに囲まれてストレッチャーに横たわる男に説明を始めた。


「じゃあ、我々の見解を説明しますね」

「頼むわ」

「警察の人たちにも聞こえてしまいますが、それは気にしませんか」

「ええよ」


 個人情報がどうとか、そういう方向にうるさい人間ではなさそうだ。

 それにしても一体どんな犯罪で何ヶ月も留置場に入っているんだろうか。


「1番考えられるのは糖尿病性の神経症だと思います」

「そうか。ワイもそうやないかと思っとったんや。もしかして入院せなアカンのか?」

「入院はしたくないですか」

「そりゃそうや。でも、治療のために必要やって事なら、そうも言ってられへんしな」


 糖尿病治療のための入院なんてのはあまり楽しくなさそうだが、留置場よりはマシだろう。

 男は嫌がるふりをしながら、オレの口から入院治療という一言が出るのを待っている。


「ヘモグロビンA1Cが6台なんで、入院するほどではないですね」

「ホンマか。そやけど前はもっと悪かったんやけどな」

「10を超えていたとか?」

「そうや。12くらいやったかな。医者にもガミガミ怒られとったんや」


 今は一時的に良くなっていても、もともと悪いのだから本格的な治療が必要のはず、というのが男のロジックのようだ。


「たぶん留置場に入る前は好き放題に食べていたんでしょうけど、今は正しい食生活になったわけですね。お酒を飲んだりタバコを吸ったりもできないし」

「そりゃそうや」

「だから留置場にいるというのが御本人の糖尿病にとっては最高の治療なんですよ」

「なんやて!」


 周囲の警察の人たちは笑いを噛み殺している。


「ホントは筋電図検査もやりたいところなんですけど」

「必要なんやったら、やってくれよ」

「太り過ぎで針が神経に届かないんです。もう少しせたら検査も可能になると思いますよ」

「ほな何か。これからもずっと留置場におって、もっと痩せろというんか!」

「私は警察ではないので、いつまで留置場にいるかを決める立場じゃないですけどね。手足の痺れが少しでもとれて、再び動かせるようになりたいのであれば、現在の環境がベストですよ、医学的に考えれば」


 男は明らかに落胆していた。


「何か書類を書く必要があれば書きますけど」


 オレが警察の人にそう言うと1枚の書類が出て来た。

「症状、病名、処置、処方」といった欄がそれぞれ2行ほどの簡単なものだ。


「不全四肢麻痺、糖尿病性神経症、採血、なし」と順に記入し、サインして警察に返した。

 まだ何か言いたそうにジタバタしている男は待機していた護送車に回収されてしまった。


「何だ、ちゃんと手も足も動いているじゃないですか」


 オレの横にいたERナースがポツリとつぶやいた。


 詐病であったにしても糖尿病であったにしても、留置場で過ごしてもらうというのが、本人を含めた全員にとっての最適解のようだ。




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