第586話 杞憂の男 2
(前回からの続き)
10日ほど前のコッツン外傷以来、心配しすぎて2日に1回の割合で病院に来ないと気がすまなくなってしまった高齢男性の
「頭が痛いのを何とかしろ!」と怒鳴る紀伊さんに対して、その日の脳外科救急当番レジデントが出入り禁止を言い渡したのだ。
「出入り禁止」が効いたのか、紀伊さんの電話攻撃はピタリと止んだ。
「あれ以来、紀伊さんから電話がかかってこなくなりましたね」
そう外来ナースが
「ピシャッと言ったら良かったんですよ。ちょっと丸居先生は甘すぎませんかね」
確かにオレも強めに注意はしたが、出入り禁止までは言わなかった。
となると、やはり救急当番レジデントの判断が正しかったのかもしれない。
オレもまだまだだな。
ぼんやりそんな事を考えていたら、地域医療室のスタッフが1枚の紙を手に持ってやってきた。
「担当医宛になっているのですが、紀伊優介さんという方のファックスは丸居先生にお渡ししたらいいのでしょうか?」
外来ナースが言う。
「ほら、やっぱり。噂をすれば何とやらですね。どこからですか?」
「日赤からですけど」
オレはファックスを受け取りながら何となく嫌な予感がした。
「うっわ、くも膜下出血かよ!」
そのファックスに書かれていたのは……
「昨夜、紀伊優介さんという名前の人が昏睡状態で搬入された。検査の結果、脳底動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であった。すぐに血管内治療による塞栓術を行った。残念ながら血腫が脳幹に及んでおり、大変重篤な状態である。奥さんによれば貴院にかかっていたということなので、診療情報や画像があれば送って欲しい」
そういった内容だった。
ファックスに添付されていた
「しまった、あの頭痛は動脈瘤の
オレは血の気がひいた。
「頭を打った事と関係あるんでしょうか」
そう外来ナースに尋ねられた。
「いや、頭部打撲とは関係ない。前からあった小さな動脈瘤がいつの間にか大きくなって破裂したんだろう」
「でも、何回もCTを
「動脈瘤はCTでは分からないからな。MRIを撮っておくんだった」
「じゃあ、あの頭痛は……」
「たぶん動脈瘤が破裂する直前の血管痛だったんじゃないかな」
「そんなあ」
確かに、前夜に「これまでに無いほどの強い頭痛」ということで救急隊からの受け入れ要請がされていた。
が、電子カルテにあった
それで救急車は日赤病院に向かった。
その車内で紀伊さんは再び激しい頭痛に襲われ、意識を失った。
典型的なくも膜下出血の経過だ。
不覚なり!
そこにたまたま通りかかったのが、紀伊さんに出入り禁止を言い渡したレジデントだ。
「先生が出入り禁止を言い渡した紀伊さんって、
オレが尋ねるとレジデントは即答した。
「もちろん憶えていますよ。また何か言ってきたんですね」
出入り禁止を言い渡すなんて1年に1回あるかないかだから、当然ながらレジデントの方も憶えている。
「昨日、日赤に運ばれたらしくて」
「えっ?」
オレは彼にファックスを手渡した。
「くも膜下出血だったらしいよ」
オレの言葉が耳に入らないのか、レジデントは黙ったまま食い入るようにファックスを見ている。
「こういう事ってあるんですか!」
彼にとっては初めての事なんだろう。
「10年に1回くらい経験する……かな」
「CTではどこにも異常はなかったのに」
「いわゆる警告頭痛って奴だったんだろう。教科書では『破裂前の小さな出血が頭痛の原因になる』って書いているけど、むしろ破裂前の血管痛じゃないかな」
「そんな馬鹿な」
オレたちのやり取りを聴いていた外来ナースに尋ねられる。
「じゃあ、紀伊さんが何度も電話してきていた時に治療していたら助かったんですか?」
「その時点でMRIを撮影して手術していれば助かっただろうな」
オレ自身、似たような経験が2回ある。
1回目は20年ほど前。
頭痛で入院していた中年女性が朝の回診の時に呼んでも起きなかった。
顔を
すぐに手術をしたが、残念ながら救命することはできなかった。
2回目は10年前だ。
尋常じゃない頭痛で近所の会社に勤めているOLが制服のまま脳外科外来に飛び込んできたのだ。
頭部CTでは異常なかったが、オレは彼女の瞳孔が右だけ開いているのに気づいた。
よくみると
「これ、
そう思って検査してみたらビンゴ!
確かに右内頚動脈・後交通動脈分岐部動脈瘤、いわゆる
すぐに開頭手術にかかる。
術野に姿を現した動脈瘤は薄い血管壁を通して血流が渦巻いていた。
まさしく切迫破裂だったと思う。
クリップをかけるとともに動眼神経への圧迫も解除することができた。
彼女は命も助かり、動眼神経も回復した。
それにしても……
20年前、10年前と同じような経験をしていながら、全く学んでいなかった。
患者を診るときに先入観を持ってはならない。
勝手に紀伊さんをモンスター扱いしていたオレ達は
できる事なら過去に戻って自分で自分の頭を殴りたい。
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