第585話 杞憂の男 1

 杞憂きゆうとは杞人憂天きじんゆうてんを略したものらしい。


 昔、春秋時代のの国に「今にも天が落ちてくるのではなかろうか」と心配していた人がいたそうだ。

 もちろん天が落ちてくるはずはない。

 だから起こるはずのない事を心配することを「の人が天をうれえる」という意味で杞憂と言うようになった。


 患者の中にも杞憂きゆうとしか言えない考えにりつかれてしまう人がいる。

 その1人が1週間に3回も脳外科外来を受診する紀伊優介きいゆうすけさんだ。

 もう80歳近い男性だが、この世に未練があるのか「ころんで頭を打って以来、頭痛がある。心配や」と言っては来院する。


「そんなに心配しなくてもいいですよ。CTなんか何度もるものじゃありません」と言われても納得しない。

 実際、強力な電離放射線を使うCTは人体に全く影響がないわけじゃない。

 1歳半以下の子供に2回以上の頭部CT検査を行ったら、半数は高校を卒業できなかったというスウェーデンのデータもあるくらいだ。


 こっちが根負けしてCTを撮影すると満足して帰っていく。

 しかし2日もつとまた心配になって病院にやってくる。

 しかも診察時間の終わった夕方に電話がかかってくることが多い。


「頭痛がある。今すぐてくれ」


 人間というのは年を取るほど知恵がつくものではないのかね。

 オレが子供の頃はそう習ったはずだが、長いこと医者をしてきて、その反対ではないかと思うようになった。


 年を取るほど馬鹿になる?


 いやいや、年を取るほど元の性格や能力が強調される、というべきか。


 紀伊さんの場合は、もともと心配性しんぱいしょうだったのが、さらに心配性になったのかもしれない。


 心配のしすぎで「自分は重大な病気にかかっているのではないか」という妄想もうそうに憑りつかれることを医学的には心気症しんきしょうという。

 妄想というのは訂正不能な思い込みだ。

 だから、いくら検査を重ねても言い聞かせても正常に戻すことはできない。

 のべつまくなしに電話をかけてくるのは一種の診療妨害といってもいい。


 前回、オレが紀伊さんの診察にあたったときはこう言った。


「確かに、頭を打った当初は何ともなくても、その後に徐々に出血してそれが頭の中にまる病気もあります」

「やっぱり!」

「それを慢性硬膜下血腫まんせいこうまくかけっしゅというんですけどね」

「それや、それと違いますか!」

「慢性硬膜下血腫ってのは、頭部打撲の1ヶ月後から3ヶ月後の間に起こるわけですよ」

「心配や、心配や」

「でも紀伊さん。頭を打ってからまだ1週間でしょ。血は貯まってませんよ」

「貯まっとるかもしれん。CTをお願いします」


 こうなったら中毒みたいなものだ。

 CTを撮影して何もない事に安心してようやく帰ってもらった。


 それでも2日くらいつとまた脳外科外来に電話がかかってくる。


「頭が痛い、痛すぎる。もう1回CTを撮影や!」

一昨日おとついに撮影したばかりじゃないですか」

「それでも痛いんや。頼むからCTを撮ってくれ」


 ついにその日の脳外科救急当番レジデントがキレてしまった。

 もう紀伊さんの奇矯ききょうな行動は脳外科の皆に知れ渡っている。

「こんなに頭が痛いのに、何かあったら責任取れるんか!」と暴言を吐く紀伊さんに対して言い返した。


「じゃあ、もし今回CTを撮って何もなかったら出入り禁止ですよ」

「ええよ。それでもいいから、CTを頼むわ」


 当然のことながらCTには何も異常はなかった。


「ほらっ、何もないでしょ!」

「ああ良かった」

「あのねえ、紀伊さん。さっきも言ったとおり、何もなかったんだから2度とこちらには来ないでください」

「えっ? ほな、具合悪くなったらどうしたらええの」

「近くにいくらでも医療機関があるでしょ」


 この病院には今までのデータがあるから、ここでないと……という紀伊さんの訴えも虚しく、電子カルテには出入り禁止のマークがつけられてしまった。

 もちろん、そんなマークがあるわけではないが、いつの間にか「理由をつけて断ってしまえ」という符牒ふちょうがスタッフの間に出来ていたのだ。

 部外者が見ても分からないが、関係者が見たらすぐに分かる。

 あまりにもモンスター患者が多いということの裏返しかもしれない。


 が、事態はオレたちの予想外の方向に進むことになった。


(次回に続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る