第574話 ゲンをかつぐ男
「うっ、痛てえ!」
患者が痛みを訴え始めた。
注射を打ったこっちが不安になってくる。
ここは病室、相手はギックリ腰の中年男性。
少しでも痛みが何とかならないかと言われて、ベッドの上で横向きになってもらい背中に局所麻酔薬を打ったのだ。
ところが、患者の反応は予想外だった。
オレはいささか焦った。
「痛いのは最初だけで、すぐに楽になりますから」
そう言いながら、自分で自分の言葉を「本当かな?」と思ってしまう。
この痛がりようは尋常ではない。
「グワーッ、痛い、痛い!」
オレが使ったのは1%キシロカインという局所麻酔薬だ。
ギックリ腰そのものを治す事はできないにしても、一時的に痛みを
いわゆるトリガーポイント注射と呼ばれるもの。
ギックリ腰にかぎらず、これまであらゆる痛みの患者に使って感謝されてきたワザだ。
痛みを訴える患者のうち9割までが「先生、楽になりました」と感謝してくれる。
残り1割には効かないが、少なくとも痛みが増すことはなかった。
ところが100人に1人ほど、逆に痛くなる患者がいる。
局所麻酔薬なのに、局所の痛みがひどくなるのだ。
どういうメカニズムかわけが分からない。
念のため、オレは開封してあったキシロカインのポリ容器を確認した。
局所麻酔薬と思って全く違う薬を打っていたら目もあてられない。
が、
「もともとの痛みが10としたら、今はどのくらいですか?」
オレが尋ねた時の患者の返事にはガッカリさせられた。
「注射の前より痛いです」
「えっ……と。もとが10としたら15くらいですか?」
「そのくらいです」
こりゃ駄目だ。
どうしたものか。
とりあえず針をさした部分をアルコール
「ううう!」
どうやらアルコール綿のひんやりした感触だけでも異常に冷たく感じるみたいだ。
これでは
局面をかえることにした。
ちょうど夕食が運ばれてきたところだ。
「これ下げてもらっていいですか?」
患者はベッド
なんせ腰が痛いのでまともに座ることも立つこともできないらしい。
だからベッドに横向けになったまま食べなくてはならない。
それで、オレにベッド柵を下げるように頼んだのだ。
オレはベッド柵を下げ、夕食ののったオーバーテーブルをベッドに寄せた。
「ありがとうございます」
患者は腰を痛がりながらもオレに礼を言う。
「私はちょっと
そう言ってオレは詰所に戻った。
詰所で目の合った師長に「せっかくキシロカインを打ったのに、余計に痛くなったみたい」と言ったら、「あら、それは残念ですね」と形ばかりの同情をされた。
いくら患者が痛がろうが全く動じないこの姿勢が今は頼もしかった。
電子カルテの端末に処置を打ち込む。
「疼痛のあるL2/3付近正中に26
そんな事を淡々と記録しながら、いったい何でまた余計に痛くなったのだろうか、と自問自答してみる。
キシロカインに過敏なのだろうか?
疼痛部分の痛覚過敏か?
逆に痛覚過敏で疼痛が起こっているのか?
薬液注入が圧力となって痛みを増悪させたのか?
疑問は尽きない。
再び病室にいってみると、患者は横向きの姿勢のまま夕食をバクバク食べていた。
どんな時でも食欲があるということは良いことだ。
オレは研修医にいつも「食欲は第5の
「痛みはどうですか。7か8程度にまで改善したとか?」
期待して尋ねたオレに患者は冷静に答える。
「ちょっとマシになったけど、それでも注射の前より痛いです」
あらら。
「じゃあ数字で言ったら12くらいですかね」
「そんなもんです」
良かれと思ってやった注射が裏目に出る。
お医者さんの仕事なんてそんな事の繰り返しだ。
ともあれ、今日はもうする事がない。
とはいえ、「先生、急変しました!」という万一のコールに備えて1時間ばかり病院に残ることにした。
その間、机に向かって山積みの書類を片付ける。
そういえば「病院で待機している時の超勤代はどうなるのか」ってのが最近の研修医のもっぱらの関心事だ。
「役職者に超勤なんかつくわけねえだろ。だから給料を気にする奴は出世するな」ってのがオレの答え。
実際は役職者手当という形で決まった額が支払われているので、厳密に言えばタダ働きではない。
が、帰るのが1時間早かろうが遅かろうが手取りは同じだ。
たぶん超勤がついていなくても普通のサラリーマンよりは貰っているのだろう。
漫画「王の病室」に登場した獄門院先生によれば「すでにそれなりの高給取りなんだから、それでいいような気もするよなァ~」って事らしいが、ちょうどオレもそんな感覚だ。
それよりも、ずっと人の生死にかかわる仕事をやってきたので、ついゲンをかつぐようになってしまった。
何が起こってもいいように備えていたら何も起こらない。
でも、そそくさと病院を後にしたら家に着くまでに患者急変で呼び戻されてしまう。
とにかく
それがオレのサバイバル術だ。
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