第566話 屍に学ぶ男

「先生、ペースメーカーを取り出してくれませんか?」


 そう声をかけてきたのは救命センターのナース。

 入院していた患者が亡くなったから胸部に埋まっているペースメーカーを取り出して欲しい、という依頼だ。


 ペースメーカーというのは電気信号を与えて心臓を動かす装置で、重症不整脈の治療などに用いられる。

 本体のサイズは親指と人差し指で丸をつくったくらいのものだ。

 この本体が胸部の皮下に埋め込まれ、そこから出ているリード線が心臓の中までのびている。

 ペースメーカーが埋まったまま火葬すると爆発するので、あらかじめ摘出しておかなくてはならない。

 ところがこの患者の主治医が別件にかかりきりになっている。

 だからたまたまそこにいたオレにナースが声をかけてきたのだ。


 ペースメーカー摘出などというのは大した手技ではない。

 皮膚を切って本体を取り出し、リード線を切断し、再び皮膚を縫い合わせるだけ。

 患者は死んでいるから麻酔は不要だし出血もゼロだ。

 

 とはいえ、外科医でなければ気軽に取り出せないのかもしれない。

 オレがアテにされたのも当然だ。


「えっと、道具は揃っているのかな?」

「ええ御遺体の横に準備しています」


 道具というのはメス、コッヘル、クーパー、持針器じしんき角針かくばり絹糸けんしといったところか。

 そうそう、有鈎鑷子コウピンも必要だ。

 これらが患者の枕元の器械台に並べられている。


 ふと視界の端に初期研修医がいるのに気づいた。


「おっ、ちょっと手伝ってくれるか? 御遺体からペースメーカーを取り出すんだけど」


 声をかけた研修医は電子カルテを打つ手を止めた。


「いいですよ」


 という事でオレたち2人は静かに横たわる遺体の前にやってきた。


「いいか、ペースメーカーが爆発しないよう、火葬前に取り出しておく必要がある」


 研修医はその事を知らなかったようだ。

 多くの場合、ペースメーカー如きが爆発しても火葬場の設備が壊れるほどではない。

 でも、時には職員が怪我をすることもある。


「皮膚の上から触るとちょっと盛り上がっているだろう。その上でも横でもいいからメスで切れ」


 おっかなびっくり、といった調子で研修医が皮膚を切る。

 人間の皮膚を切るのは学生時代の解剖実習以来かも。


「ペースメーカーにそって皮下を鈍的どんてき剥離はくりしろ。皮下にコッヘルを入れて外側に拡げるんだ」


 オレがちょっとやって見せた後、研修医にコッヘルを渡した。


「本体を全周性ぜんしゅうせいに剥離できたら手で引っ張り出せ」

「リード線が……」

「たいていのリード線は心筋に食い込んで引き抜けないから、そいつはクーパーで切断しろ」


 リード線は爆発する事がないので人体に残しておいても大丈夫。


「よし、後は皮膚を全層で縫え」


 研修医は持針器で角針を噛んで絹糸を付けようとするが、なかなか上手く行かない。

 時間はいくらでもあるから忍耐強く待つか。


「針糸が準備できたら皮膚の縫合だ。左手に有鈎鑷子コウピンを持って、皮膚のこの辺に針を入れてこの辺から出せ」


 狙った通りの位置に針を刺したり抜いたりするのが難しそうだ。

 得てして医学部卒業者は手先が不器用な者が多い。


結紮けっさつも自分でやってみろ。男結おとこむすび3回だ」


 2人で皮膚の縫合をするときは一方が縫い他方が結ぶ。

 しかし、研修医教育を考えた場合、縫うのも結ぶのも自分でやらせた方がいい。


 オレにガミガミ言われながら、研修医は汗だくになりながら10針ほどの縫合を終えた。


「先生は何科に行きたいと思っているのかな?」

「外科か救急を考えています。今日は本当にありがとうございました」


 研修医は心底オレに感謝しているみたいだった。

 生きている人間相手にぶっつけ本番で皮膚を縫うよりは、遺体の皮膚を縫う方が遥かに気持ちが楽だ。


「本当に感謝する相手はオレよりこの人だろ」


 そういってオレは横たわっている遺体を振り返った。


「ちゃんと手を合わせておけよ」

「はいっ!」



 その昔、オレが学んだ医学部の解剖実習室にはこんな額がかかっていた。


しかばねけるなり」


 全くその通りだと思う。



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