第562話 疲れ切った男

 普通の血管吻合術ふんごうじゅつのはずだった。

 極端に血管の細いモヤモヤ病ではない。


 手術用顕微鏡を使った吻合も特に難しくはなかった。

 にもかかわらず、遮断解除した時の浅側頭動脈STAの拍動が弱い。


 ドプラーで血流を確認してみる。

「ボコッ、ボコッ」という閉塞パターンの音が聴こえる。


 ICGという蛍光色素で血管造影をしてみる。

 ダメだ、やはり浅側頭動脈STAがうつってこない。


 瞬間的にこれまでの失敗症例の数々を思い出してしまった。

 何度も吻合し直して最終的にあきらめたもの。

 術直後には開通していたのに、翌日には閉塞してしまったもの。

 手術用顕微鏡の調子が悪いのか、途中で焦点があわなくなって不本意な吻合になってしまったもの。

 この顕微鏡マイクロ、次の手術では問題なかったので、いまだに何が悪かったのかは不明のままになっている。


 が、今は手術の最中だ。

 感慨にふけっている余裕はない。

 次の一手をどうするか、それを考えなくてはならない。


 やり直すか?

 おそらく開存しない原因は縫った8針のうちの1針だろう。

 それがどの1針か分からない。


 その時、モニターをみていた忙野ぼうの先生から声がかかった。

 オレの頭の中を読み取っていたかのようだ。


「手前側はちゃんと縫えていたし内腔も確認できているので、向こう側が問題じゃないですか?」

「もう3本ともやり直そうかと思うんだけど」

「それなら固いですね」


 オレは再び血流遮断し、向こう側の3本の糸の結び目を切って抜いた。

 開口部の長径は約2ミリだから、ほぼ0.5ミリ間隔で縫っていた糸だ。


「浅側頭動脈の遮断を一瞬解除して血流の確認をしてみましょうよ」

「よっしゃ」


 そういって、オレは遮断クリップをちょっとゆるめた。

 途端に血液が噴出する。

 浅側頭動脈の血流は良好だ。


「よし、針糸。持針器じしんきには逆手ぎゃくてでつけてくれ」


 オレは直接介助看護師スクラブナースに指示する。


 今度はさらに慎重に血管を縫っていく。

 外膜から内膜まで全層を針で確実にとらえなくてはならない。

 縫合する2つの血管壁のしろを同じにする。


 しかし、度重なるやり直しで疲れていたのだろう。

 細かなミスを何度かしてしまう。


 針を飛ばしてしまうとか。

 せっかく綺麗に血管壁を通した糸が結紮前に抜けてしまうとか。


 ここでイライラしてはならない。

 何とかギャグで切り抜ける。


「これはオレに対する試練か。天よ我に七難八苦しちなんはっくを与えたまえ、だな」


 1本ずつ慎重に結紮けっさつし、いよいよ遮断解除する。


 ドプラーでの血流音も良好。

 そしてICGでの血管造影だ。


 と、思わぬことが起こった。


 なんと中大脳動脈MCAから浅側頭動脈STAに血液が逆流していたのだ。

 この現象は2つの事を意味する。


 1つは吻合部の開存は良好だということ。

 もし吻合部が閉塞していたら、逆流すらしないことになる。


 もう1つは中大脳動脈MCAの血流が十分にあるということ。

 そもそも血流が十分にあるのなら血管吻合の手術を行う必要がなかったということになる。

 無用な手術をしてしまったということになれば、面目ない。


 一難去ってまた一難、とはこの事だ。


 その時、たまたまモニターの前を通りかかった脳外科スタッフから声がかかる。


浅側頭動脈STAが少し攣縮スパスムをおこしているように見えますよ」


 確かに何度も触っていたせいか血管壁が収縮して細くなっている。

 この現象を攣縮スパスムと呼ぶ。


 そこで血管拡張作用のある塩酸パパベリンを塗布して挽回を図る。

 と、少しずつ浅側頭動脈の拍動が強くなってきた。


 再度、ドプラーをあてて音を聴く。

「ブシューン、ブシューン」という力強い音だ。


 よし、ICGで血管造影をしてみよう。

 今度は見事に順行性の血流を確認することができた。



「ふーっ、危ないところだったぜ!」


 余裕のある表情を装いながらもオレはもうクタクタだ。

 やはり練習で使うトリの手羽先てばさきと実戦ではかなり違う。


 幸い、閉創が済むまで、確認のたびにドプラー音は「ブシューン、ブシューン」というものだった。

 患者は無事に全身麻酔から目覚めて、どこにも神経学的欠損症状は見当たらない。

 ホッと安堵のため息をつく。


 それにしても何でこんな大変な思いをしなくてはならないのだろう。

 いつもの事ながら苦労した手術の後では、そう思わされる。




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