第550話 トイレ掃除をする男 2

(前回からの続き)


 診察室で患者夫婦にオレは言った。


「脳を鍛えて記憶力を良くしよう、というのはあまり考えない方がいいと思いますよ」


 すると奥さんに切実な声で尋ねられた。


「もうこれ以上、治らないという事なんでしょうか?」


 オレは言った。


「記憶力が改善する可能性はありますが、脳トレは効率的ではないという意味です」


 さらに続ける。


「文明の利器を使って記憶力を補うという方が現実的だと思いますね。私も年齢のせいで記憶力が衰えてきていますから、色々と工夫しているんですよ」


 これは本当の事だ。

 年を取るほど憶える事は増え、記憶力は落ちていく。

 だから様々な方法で乗り切らなくてはならない。


 オレは続けた。

 もう多くの患者に繰り返し伝えてきたものだ。


「たとえばホテルや遊園地などの広い駐車場に車を停めたときにですね、帰りに場所が分からなくなる事があるでしょう」


 夫婦はうなずいている。


「だから駐車して降りたときに、スマホであらかじめ場所番号と一緒に車の写真を撮っておくわけですよ、F-118とか」


 さらにオレは続けた。


「職場で書類を提出するときにもモノによってはスマホで写真を撮ってからにしています」


 非常勤医師の勤務時間管理簿なんかは手書きのアナログな書類だ。

 これに押印した後、事務に提出する前に写真を撮っておく。

 そうすると紛失騒ぎがあったとしても対応できる。


「あと、会議の記録を録音していますよ」


 たとえば医療事故や医事紛争の聴き取りだ。

 関係者数名が集まって1時間ほどかかって検証するが、帰りの車の中でスマホ相手に内容を録音しておく。

 5分かそこらだけど、半年もしたらすっかり中身を忘れてしまう。

 1年ほどして必要になった時に録音したものを聴けば、その時の生々しい感情とともに事案を思い出すことができる。


「それとアナログの活用ですね。私はメモ帳を愛用しています」


 ちょっとした7ケタの数字とか、人の名前とか。

 パソコンから電子カルテに書き写すときなんかに使う。


 また、「やることリスト」をメモしておく目的も使っている。

 あくまでもメモであってスケジュール帳ではない。

 だから、用が済めばそのページを千切って捨てる。


かばんくさないよう私は手ぶらの事が多いですね」


 電車の網棚に鞄を忘れて、何度お忘れ物取扱窓口に行った事か。

 自宅でも職場でも私物は置き場所を決めている。


「色々と工夫をしているんですね、先生は!」


 普通はするんじゃないかな、そのくらい。

 習慣になってしまえば面倒なこともない。


 オレは次の課題にうつることにした。


「もの忘れ対策はこのくらいにして、次はイライラ対策にいきましょう」


 患者夫婦にとってはこちらの方が大切かもしれない。


(次回に続く)

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