第546話 洗脳する男 1

 日本の病院におけるレジデント獲得競争は大変な事になっている。

 というのも現場での主な働き手がレジデントだからだ。


 その状況を語る前に、まず医師の研修制度を紹介しておこう。

 医学部を卒業して国家試験に受かったら晴れて医師免許を持つことができる。

 が、この状態ではまだ初心者マークだ。

 なので初期研修医として2年間の医師臨床研修プログラムに入らなくてはならない。

 初期研修では内科や外科、産婦人科などをローテーションして学ぶことになる。

 また、この2年間は自らの適性をみつめ将来の進路を決める重要な時期でもある。


 この初期研修は厚生労働省の厳密なプログラムに沿って行われるので、過重労働などはもってのほか。

 勤務は9時5時だし当直明けは受け持っている入院患者がいかに重症になっていても家に帰れる。

 もちろんその重症患者は誰かが対応しなくてはならない。

 その役はレジデントに回ってくる。


 レジデントは後期研修医とも専攻医とも呼ばれる。

 2年間の初期研修が終わって各診療科の専門医を目指して3年から5年間の修行を積む立場だ。

 因みにウチの脳外科の専門医プログラムは4年間、総合診療科は3年間になっている。


 レジデントになってようやくお客さん扱いから仲間扱いになる。

 各診療科にとってレジデントは貴重なマンパワーだ。


 かくして診療科の間で激しいレジデント獲得競争が行われることになる。


 時には既に専門医プログラムに入っているレジデントを引き抜こうという掟破おきてやぶりも起こったりする。


 実際、ある麻酔科レジデントが外科に引き抜かれようとしていた。

 その事をオレは麻酔科部長から聞いた。

 麻酔科も人手不足だが外科はもっと人手不足だ。


 まるで「争い事は貧乏人同士で起こる」という世の中の縮図みたいになっている。


 ここで言う外科というのは一般外科の事で主として消化器を扱う。

 肝胆膵などの実質臓器や大腸・小腸などの管腔臓器だ。

 脳外科や整形外科は一般外科とは別になる。


 外科で手術だけするなら甲斐がいもあるが、それ以上に雑用をこなさなくてはならない。

 また術後に縫合不全や肺炎などが起こったら週末の私生活が吹っ飛んでしまう。

 どうしても初期研修医にはコスパの悪い仕事に見えてしまうのだろう。


「彼、ポーッとしているように見えるんだけど、貴重な戦力になりつつあるからさ」


 そう、麻酔科部長がこぼした。

「彼」というのは、今まさに引き抜かれようとしているレジデント1年生だ。


「確かに彼の性格からすれば外科より麻酔科の方が向いていそうですね」


 オレはそう答え、さらに続けた。


「麻酔科はオン・オフがはっきりしているけど、外科のように患者を持っているとそうはいかないですから」


 これは脳外科でも同じ事だ。

 救急患者の対応や入院患者の急変で、人との約束をキャンセルした数はオレ自身10回や20回では済まない。

 携帯電話が普及する前なんか連絡手段がなかったので完全なすっぽかしだった。


 さて、ちょうど麻酔科部長の愚痴を聞いたその日に研修医マッチング判定会議があった。

 その会議の席で図らずも外科のマンパワー不足が露呈してしまったのだ。


(以下、続く)

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