第545話 吃逆を愛する男

吃逆というのは「きつぎゃく」と読む。

しゃっくりの事だ。


時に何日も吃逆きつぎゃくがとまらない患者がいる。

こんな時は本当に困ってしまう。

中には何年もとまらない人もいる。


治療は、柿のへたを煎じてつくった柿蔕していだ。

効く事もあれば効かないこともある。



で、先日の学会。


ある病院の先生が何を思ったか吃逆きつぎゃくを止めてやろうと思ったのだそうだ。

吃逆は嚥下運動えんげうんどうの一種で、その中枢は脳幹にあることを突き止めた。

血中の二酸化炭素濃度を上げれば吃逆が止まるはず。


これを証明すべく研究計画書を作成してIRBに提出した。

IRBというのは Institutional Review Board施設内審査委員会 の略。

患者を対象とした研究が科学的かつ倫理的であるか否かを審査する委員会だ。

大学病院や公的医療機関はもとより中規模以上の医療機関には設置されている。


が、この研究計画書は審査を通らなかった。

エビデンスが無い上に二酸化炭素の吸入は危険だ、というのがその理由だ。


その先生はガッカリした。

エビデンスが無いから、それを作ろうというのが研究だ。

二酸化炭素を吸入させたって、せいぜい呼吸が停まるくらいの事じゃないか。

蘇生の準備をしておけば何の問題もない。

まったく「馬鹿につける薬はない」とはこのことだ。


そんな時、噂を聞きつけて遠くに住む患者から連絡があった。

生まれてから20数年間、吃逆きつぎゃくのとまらない女性だ。

吃逆のせいで何処にも行けない。

両親も困り果てて一家心中まで考えている。


で、この先生、どうしても彼女の吃逆を止めたくなった。

治療は特製の酸素・二酸化炭素ブレンドガスの吸入だ。

理論的にはこれで止まるはず。

一家3人にも治療を懇願された。

「死んでもいいから治療してくれ」とまで。


でもIRBは通っていない。

そこで、苦肉の策として患者を共同研究者に加えた。

研究者が自分自身に対する実験を行うことにIRBの許可は要らない。


ただ、問題は病院から患者宅までの距離が遠いことだ。

患者は門外不出、病院まで来ることは不可能だ。

かといってボンベを持って飛行機に乗るわけにもいかない。

で、ボンベをかついで新幹線で患者宅に向かった。

もちろん新幹線代は自腹じばらだ。


患者宅に到着し、ボンベを装着した。

いざ、治療開始。


何と!

5分で吃逆きつぎゃくが止まった。


20数年間の苦しみがたったの5分で解決してしまったのだ。

もう患者は2度と吃逆に苦しむことはなくなった。

その喜びは大変なもので、初めて家族で外食をすることができたのだとか。


この手応えに自信を持った先生は研究計画書を書き直して再びIRBに提出した。

今度はあっと言う間に「諾」で返ってきた。


どうやら院内の噂が強力な後押しをしたのではなかろうか。

そんな推測がされている。


というのも、20数年の吃逆を5分で止めた特製ボンベの噂が院内を駆け巡っていたのだ。

医療従事者なら、その治療の凄さを理解できる。


最初の研究計画書を落としたIRBの連中は素人の集まりじゃねえのか?

いっそ馬鹿を治すボンベでも作ってもらえ。

そんな世間のヒソヒソ話が委員たちの耳にも届いたのだろう。


今では画期的治療法の存在を聞きつけた吃逆患者が国内はもとより海外からもやってきて大変な状況になっているそうだ。



この話をオレは学会に出席していた妻から聞いた。


妻は言う。


「患者さんに対する愛情があふれている先生みたいよ」


オレは返した。


「たぶん吃逆きつぎゃくに対する愛情があふれているんだろう」


たぶん、どっちでも同じ事なんだろうけど。

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