第542話 小説を書く男

医者をやってると昔の友達がよくやってくる。

皆さん、それぞれに体に不具合の出て来る年頃になってきた。


そのうちの1人が中学高校で同級生だった氷置ひおきだ。

何か身体に不調があるということで病院にやってきた。

職場でもトラブっているようだ。

結局、仕事を辞めることになったらしい。


養うべき妻子がいるわけではないので気楽なもんだ。

実際、次の仕事も決まりかけているのだとか。


「俺、ホントは小説を書きたいと思っているんだ」


診察室で氷置ひおきがオレにそう言った。


「凄いじゃないか、それ!」


半分は本気で言ったが、本気なのは半分だけだ。


もし本当に作家になったら、凄い事だと思う。

たとえ売れなくても。


「作家になりたい。小説を書きたい」と言う人間は山ほどいる。

何の資格も要らないから、言うだけなら誰でも可能だ。


その中から本当に10万字の長編小説を書く人間がどのくらいいるのか。

おそらく100人に1人だろう。


さらに新人賞を獲って作家デビューするのは、そのまた100人に1人だろう。


あまりにも狭き門に違いない。


「俺が原稿を書いたら見てくれる人がいるんだ」


彼はオレ達の故郷の有名作家の名前をあげた。


「実際に原稿を持って行ったのか?」


オレは尋ねてみた。


「いや、まだだ。原稿が出来たら見てくれるという約束なんだ」


その有名作家は大勢の小説家志望者に同じ事を言っているのだろう。

なんせ100人に安請け合いをしても、本当に原稿を持ってくるのは1人いるかどうかだからな。

そのくらいの事で喜んでもらえるなら安いものだ。



一方、オレは小説を書いた、出した、そして落ちた。

落ちはしたが、オレの方が氷置ひおきより偉いと思う。


100のアイデアより1つの原稿だ。

オレはそう信じている。


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