第538話 順序が逆になる男

 オレは夢を見ていた。


 100人も入れば一杯になりそうな会議室に座っている。

 半分くらい埋まっていただろうか。


 そこにアントニオ猪木がやってきた。

 皆が立ち上がって拍手をする。


 そこで目が覚めた。

 土曜日の午後だ。


 台所では妻が食器を洗っている。

 その水の音が拍手になって夢の中に入ってきたのかもしれない。


 本当は、水の音が拍手に聞こえて、それを理由づけるために無意識にアントニオ猪木を登場させたんだと思う。

 つまり順序が逆だ。


 この「順序が逆」現象は医師になってから経験するようになった気がする。


 病院の当直室で寝ていて夜中にふっと目が覚める。

 その3秒後くらいに電話が鳴り始めるのだ。

 用件は色々。


「救急車が入ります」

「〇〇病棟ですが、入院患者さんが急変しました」


 当然ながら、いい知らせというのは経験した事がない。

 救急搬入の電話の場合、すぐにサイレンの音が遠くから聞こえてくる。

「このまま通り過ぎてくれないかな」と願っていても、病院の前でサイレン音が止まる事がほとんどだ。


 最初のうちは「当直室の電話が鳴る寸前に目が覚めるなんて、もしかしてオレは予知能力があるんだろうか?」と思ったりしていた。

 が、そのうち電話が鳴ったという記憶と目が覚めたという記憶との順序が入れ替わったのではないかと思うようになった。


 まさしく「順序が逆」現象だ。


 日常生活で記憶の順序が入れ替わる事はほとんど無いが、ちょうど目が覚める時には頻発するような気がする。


 以前の脳外科の同門会どうもんかいでの講演が、新任の基礎医学教授による「体感時間の伸び縮み」だったが、「時間の感覚というのは不思議なもので、記憶の順序が入れ替わってしまうこともあるんですよね」という言及があった。


 そっちの話の方も聴きたかった。


 学会でも大学の同門会でも、外部の学者による学術講演が行われることがよくある。

 あまり本業と関係なさそうな話ばかりだが、聴衆の方は嬉々ききとして聴いている。


 幸いな事に、「それを脳外科にどう役立てればいいのですか?」という無粋ぶすいな質問をする人間はついぞ見たことがない。


 自然科学は、それ自体が出来のいいエンタメだと思う。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る