第535話 働き過ぎた男

 月200時間の超過勤務でうつ状態になって自殺した26歳の男性医師のニュースが報じられている。

 神戸大学卒業の消化器内科レジデントだったそうだが、なんとも残念な事だ。

 この事案については西宮労働基準監督署に労災認定されている。


 母親には「朝5時半に起きてタクシーで出勤し、午後11時に帰宅している」「土日も行かないと業務が回らない」と話していたとのこと。

 2020年2月から自殺するまでの5月17日まで3ヶ月間休めなかったそうだ。



 現場にいる人間にとっては「あるかもしれないな」と感じる事だ。

 でも、一般の人には何がどうなっているのか分からないと思うので少し説明したい。


 まず、医学部を卒業すると2年間の初期研修がある。

 この間は厳密なカリキュラムのもと労働時間の管理がされている。

 時に月の残業が100時間を超える初期研修医がいたりするが、本人とローテート先の診療科の部長が呼び出されて説教を食らうシステムになっている。

 この期間、初期研修医はあまり戦力として期待されておらず、お客さん扱いの事が多い。


 しかし、病院の医師全体がトータルとして行うべき仕事の量が変わるわけではない。

 初期研修医の労働時間が厳しく管理されている分、そのシワ寄せはレジデントにむかう。

 オレはレジデントと呼んでいるが、後期研修医とか専攻医と呼ぶこともある。

 レジデントは初期研修が終わった後の3~5年間で、脳神経外科とか消化器内科とか耳鼻科とかの専門に分れて修行する。


 そもそもレジデントというのが「住人」という意味なので、病院に住み込んで働くというニュアンスがある。

 レジデントが長時間労働することによって辻褄をあわせているのが現状だ。


 たぶん、今回のニュースの舞台になった病院でも初期研修医の労働時間は厳しく守られていたのだと思う。

 が、レジデントになった途端、各診療科の裁量が大きくなり、月200時間の超勤ということが起こってしまったのではなかろうか。



 で、何でそんなに大量の仕事があるのか。

 それも一般の人からは見えないところだと思う。


 週2回の外来をしていると、オレが週2回だけ出勤していると思っている通院患者が少なくない。

 一方、なぜか同じ患者が入院すると、オレが外来診療や手術をしているとは想像できないようだ。

 外来診療、入院診療、手術、救急対応というのは医師としての本来業務といえるが、その他にも雑用が大量にある。



 まず診断書や意見書の作成だ。


 オレの場合、週に20枚程度だと思う。

 他の医療機関にあてた診療情報提供書も同じくらいの枚数を作成しなくてはならないからトータルの書類は40~50枚程度だろうか。

 定型的なものは医師事務作業補助者に下書きをしてもらえる。

 が、保険会社や警察からの個別照会に対してはゼロから文書作成をすることになる。



 次に会議だ。


 実は病院での会議というのは診療報酬制度で義務づけられているものが多い。

 具体的に言うと「〇〇対策委員会をつくって月1回以上の会議を行った場合に〇〇点の加算をつける」という形だ。

 数えた事はないが、多分、病院全体で数十という単位で存在する。

 会議ってのは30分間出席すればいいというものではない。

 準備する必要もあるし、宿題をもらってしまうこともある。



 さらに病状説明というものもある。


 オレくらいの年齢だとムンテラと呼ぶ。

 患者や家族に病状説明をしなくてはならない。

 10分や20分で済めばいいが、気がついたら1時間も説明していた、という事も珍しくない。

 同じ質問を何度も繰り返す人もいるが、これは答える方も苦痛だ。

 また、他の医師や前の医療機関に対する苦情をオレにぶつけてくる患者もいる。

 客商売をしている人間なら分かってもらえると思うが、こういうのは単なる時間の無駄だ。

 だけど、そう思っていない人も多い。



 あと、ニュースの記事にあった学会発表の準備というのもある。


 これは診療報酬にも給料にも反映されない。

 が、ある意味、医師たちが最も注力するものともいえる。

 レジデントであれば「〇〇という症状で発症した××の1例」という症例発表が主になる。

 5分間の発表に費やす準備というのは何十時間に及ぶ。

  ××という疾患がなぜ〇〇という症状で発症したのか。

  逆に〇〇という症状のうち、どのくらいが××という疾患なのか。

 国内外の文献を調べて発表の形にまとめなくてはならない。

 レジデントの間は力の入れ方や抜き方が分からないので、無駄な時間と労力を費やしがちだ。


 そう考えると、どうしても長時間労働になってしまう。

 だから、うまく睡眠時間をとり、仕事を片付けなくてはならない。


 最も簡単なのは病院に泊まることだ。

 空いている当直室で寝るとか、病室で寝るとか。

 ただし病室では患者用ベッドではなく簡易ベッドを使わなくてはならない。

 看護師によるベッドメイキングの手間を減らすためだ。


 病室で寝るのは案外、夜勤の看護師に喜ばれる。

 が、それは入院患者が急変した時の叩き起こし要員にほかならない。


 あと、診断書を全く書かないレジデントも10人に1人くらい存在する。

 そんな時は部長先生が苦り切った表情で代筆している。

 説教するより自分で書いた方が速いし省エネだからだ。



 労災認定されるのは、数字で出て来る超勤時間がほとんど。

 しかし、隠れ長時間労働も多いし、クレーマー対応などの質的な負担もある。

 今回のレジデントは立場上、質・量ともに業務のコントロールが難しかったのではないかと思う。

 自分の裁量が大きくなれば、多少の長時間労働でも平気になるのだけど。


 当該病院は再発防止策を講じるのだろうけど、時間的な事だけに終始しないようにして欲しいと願う。

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