第523話 脳腫瘍の女
脳神経外科の地方会に出席していた時のこと。
ある大学病院の医師に声をかけられた。
「私の患者さんの事でお願いがありまして」
オレとはお互いに面識のある程度の
「
「ええ」
「万一、急変した時に先生の所にお願いできないかと」
「いいですよ」
「その患者さん、ウチからは近いんですか?」
「自宅も職場も先生の病院の近所です」
「現在の状態はどんな感じでしょうか」
「今も仕事を続けておられます」
「分かりました。1度、私の外来を受診していただいてカルテを作っておきましょう。急変した時に少しでもスムーズに受け入れられるように」
もちろん救急の時には通院患者だとか
が、カルテを作っておき、そのメモ蘭に「カクカクシカジカで、可能なかぎり応需をお願いします」と書いておけば、少しでも救急当番医が事情を
主治医にとっても患者にとっても大切なのは安心感だ。
で、後日オレの外来を受診してもらった。
驚いた事に彼女の職業は厚生労働省の麻薬取締官だった。
通称「マトリ」として知られ、拳銃を持って捜査をすることもあると聞いている。
実物のマトリを見たのはオレも初めてだ。
若い女性だが、職務上スーツではなくラフな格好をしている。
診察室では何ら神経欠損症状はなさそうだった。
が、脳腫瘍の中でも
診断から1年、せいぜい2年もてばいい方だ。
職場で全身痙攣を起こして救急車を呼ぶという事も十分にあり得る。
「先日、主治医の先生から『くれぐれもよろしく』と頼まれました」
「ありがとうございます」
「大学病院までは遠いですから、もし自宅や職場で倒れたりしたら迷わず救急車でウチに来てください」
「御迷惑をおかけします」
「いや、迷惑なことは全然ありません」
オレは急変についての具体的な話をすることにした。
「可能性として最も考えられるのは全身痙攣です。そういう場合には、搬入されたら
「ええ」
「そして、CTやMRIなどの画像検査を行って主治医の先生に連絡させてもらいます」
「よろしくお願いします」
「大抵は抗痙攣薬の血中濃度を調べて薬の調整を行い、4~5日で退院できるはずです。必要に応じて大学病院に転送することもありますが、それでよろしいでしょうか」
「そうしていただいたら助かります」
実際には想定通りいかない事もある。
が、先にも述べたように患者に安心感を持ってもらう事が大切だ。
だから「こういった場合にはこう対応する」と
何度も御礼を言いながら彼女は帰っていった。
その後、幸いにも彼女が救急車で搬入されることもなく、1年が過ぎる頃にはオレもすっかり忘れていた。
そんなある日の事。
外線に地方厚生局麻薬取締部から連絡があった。
監督官庁からの直接の電話だ、誰でもギクッとする。
オレ、何かやらかしたかな?
そう思って電話に出たら思いがけない知らせだった。
「昨日、麻薬取締官の〇〇が亡くなりました」
彼女の上司からの連絡だった。
さすがに役所だけあって、こういう事はキチンとしている。
「1年前に先生に
最後はもう涙声で聞き取れなかった。
オレも貰い泣きしそうになる。
こういう人たちが日本の社会を支えているのだろうな。
オレの外来にも麻薬・覚醒剤をやめられない患者が何人もいるけど、何で正義の味方の方が先に死んでしまうのかねえ。
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