第521話 訂正印を押す男

 自分の人生を振り返って修正したいと思う事は誰にもあるはず。

 オレもそうだ。


 あの時、ああ言うべきではなかった。

 あそこは、こうするべきだった。


 そういった黒歴史は沢山ある。


 タイムリープもののSFでは、主人公が10年前に戻るとか。

 もっと短く、10分前に戻ってやり直すとか。

 そういうパターンの小説がある。


 で、自分を振り返って考えてみよう。


 あの時、ああすれば良かったなどという記憶は小学生くらいからある。

 じゃあ、若い頃に戻ってやり直したいかというと、それはない。

 もちろん楽しい事もあったが、苦しい事も沢山あった。

 それをもう1度やれといわれてもできたもんじゃない。


 たとえば研修医時代。

 夜遅くまでかかった手術が終わって午前1時頃にシラフで帰宅する。

 ようやく寝床に就いたと思ったら、また病院に呼び出される。

 時計を見たらまだ午前4時だったりするわけ。


 そんな事が平均して週1回くらいあった。

 当時は体を壊さずにすんだが、寿命を縮めたという実感はある。

 だから、あの頃からのやり直しってのはもう勘弁して欲しい。


 むしろやりたいのは部分的な修正だ。


 人生が長い長い小説だとしよう。

 黒歴史の部分だけ2本線で消して訂正印を押す。

 さらにその上に修正した文章を書く。

 それが出来れば最高だ。


 たとえば、勇気を振り絞ってクラスの美少女に告白したけれども玉砕してしまった、という経験を考えてみよう。

 恥かしいし悲しいし、もう絶望的な気分だ。

 でも、そういうのはオレに言わせれば黒歴史でも何でもない。


 それよりも、告白してきた女の子を足蹴あしげにしてしまった、という事の方が問題だ。

 断るにしても、もうちょっと上手にやるべきだろう。

 ここで2本線と訂正印が登場するわけだ。


「君の気持ちは嬉しいけど、実はオレには彼女がいるんだ。だからいい友達でいよう」


 ホントは彼女なんかいないけど、こういった嘘なら許されると思う。



 医師をしていれば、自分の失敗で患者の状態が悪化した、というのは数えきれない。

 自分ではベストだと思ってした事が裏目に出るわけだ。


 思い出したくもないが、動脈瘤壁から細い血管を剥離しようとして大出血させてしまった事がある。

 患者には重大な障害が残ってしまった。

 もし当時の自分に横からアドバイスするなら「その血管を温存するのは諦めて、切ってしまえ」と言うだろう。

 そうしていれば小さな脳梗塞はできたかもしれないが、動脈瘤破裂という最悪の事態は避けられたはずだ。


 だから過去に戻ってその部分だけ修正したい。


 とはいえ、こういった事は医師という仕事につきものの宿命だ。

 時には力不足のまま病気に対峙たいじせざるを得ない事もあるし、悪い結果を避けられない事もある。

 その部分は受け入れざるを得ない。



 むしろ、自らの言動で人を傷つけてしまった、という後悔の方が多い。

 言葉ひとつで避けることができたはず、と思うからだろう。



 とはいえ、現実は現実だ。

 今のオレに出来ることは、こういった黒歴史の1つ1つを小説のネタにして成仏させる事かもしれない。

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