第517話 救急モードの男

「プルルルル、プルルルル」


 胸ポケットのスマホの着信音だ。

 画面表示には掃除業者の名前が出ている。

 そういや、自宅の掃除のために電話を受けることになっていた。


 でも、すぐに出るわけにはいかない。

 だからオレはスイッチを切った。


…………


 オレが今いるのは救急外来だ。

 脳出血の患者が搬入されたので、オレは応援に呼ばれていた。

 頭部CTでは側頭葉の脳出血が脳室に穿破せんぱしている。


「血管造影か脳室ドレナージか、出来る方から先にしよう」


 そう言ったが、昏睡状態の患者は今にも痰を詰まらせそうだ。

 いつ呼吸が停まってもおかしくない。


「先に挿管そうかんだな」

「挿管しますか」

「早いか遅いかだけの違いで、挿管は必須だろう」

「分かりました」

「誰が挿管するのかな?」

「僕がします」


 レジデントがフェイスシールドとプラスチックガウンを装着した。

 オレはバックアップのために患者の右側に立つ。

 挿管がうまくいかなかった時に代わるためだ。


 あらゆる医療行為の中でも最もクリティカルなものの1つ。

 気管挿管に全員の意識が集中する。


 胸ポケットのスマホの着信音が聞こえたのはそんな時だ。

 オレは黙ってスイッチを切った。


 レジデントはマックグラスを見ながら気管挿管を無難にこなす。

 少しエア漏れ音があったがカフに空気を注入するとともに消えた。

 慎重に聴診器で確認する。

 キチンと気管に入っているみたいだ。


「入ったからといって喜んで過換気するなよ。モヤモヤ病の可能性があるからな」

「分かりました」


 大人の脳室穿破はモヤモヤ病の可能性が少なからずある。

 ここで二酸化炭素を飛ばしたりすると容易に脳梗塞が起きてしまう。

 モヤモヤ病の落とし穴だ。


 その時、2回目のスマホ着信音が鳴った。


 もう電話に出ても大丈夫だ。

 オレは救急外来の外で清掃業者の女性に対応した。


「もしもし」

「お世話になっています。〇〇社ですが、お時間少しよろしいでしょうか?」

「いいですよ」

「あの、お伺いしていた〇月×日ですが、生憎あいにくその日は予約が一杯でして。お伺いできるとしたらお盆過ぎになるのですが」

「分かりました、改めて連絡します」


 意識が救急モードになっていたせいか、自分でも驚くほど声が冷ややかだった。


「あの、この携帯は会社の業務用のもので。私は〇〇と申します」


 もう担当者は泣きそうな声になっている。


「また、お日にちが決まりましたらお電話ください」

「はい、失礼します」


 考えてみれば前日にこの会社に電話した時も同じ担当者だった。

 客商売の習性か、オレは相手が誰であってもフレンドリーに対応する。

 だから、この女性は前日との落差に驚いたのかもしれない。


 救急外来では誰もが感情を抑えた声で会話する。

 泣いたり喚いたりしても良いことは1つもないからだ。


 たとえば、山道を歩いていて前方のクマに気づいたとしよう。

 誰でもできるだけ冷静に会話するだろう。

 常に軽い緊張状態にある救急外来でも事は同じだ。


 だから救急外来ではお互いの声に違和感を持つ事はない。


 が、外の世界の人にとっては全く別の話になる。

 意識が救急モードのままオレは電話に出てしまっていたのだ。


 仕方がない。

 スケジュールを確認してから客商売モードで電話をかけ直そう。

 担当者はますます混乱するかもしれないけど。


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