第502話 罵倒する男
「
「いや実際に蹴るということはなかったですけど、
…………
総合診療科ではローテートしてきた初期研修医にスライドを使った自己紹介をさせている。
研修医といっても高校卒業からストレートに医学部を経て医師になった24~5歳の若者ばかりではない。
医学部に入る前はサラリーマンで営業をしていたとか、家業を継いで店を経営していたとか、色々な経歴の人間がいる。
比較的多い前職は薬剤師で、これはもう無数といっても過言ではない。
今、自らの経歴を語っているのは有名な基礎研究所で生命科学の実験をしていたという研修医だ。
彼は工学系の学部を出たあと興味が徐々に生物学の方にシフトし、世界的に有名な先生のもとに弟子入りした。
「
当該研究所のホームページを見ると、その先生は今も現役で仕事をしているようだ。
「でも、かなり変わった性格のボスで……」
「なんか変人のエピソードとか教えてよ」
お医者さんにも変人奇人は多いが、それを超えているんじゃないかという予感に皆が期待する。
「そうですね。毎週、メンバーが研究の進捗状況を皆の前で発表するんですが」
確かにオレが在籍したアメリカの研究室でもそうだった。
ただ、誰も他人の研究内容なんか興味ないから、あまり盛り上がっていなかったのが本当のところ。
「ある発表の時に
「おお、面白くなってきたぞ」
「で、発表者もそのストレスに耐えきれなかったのか倒れてしまいまして」
医学的にいえば神経調節性失神だろうな。
命にかかわることはない。
でも基礎研究者たちがそんな事を知るはずもない。
仲間が倒れたらパニックになる。
「大丈夫か、と言いながら皆が駆け寄ってきたんですよ」
「普通はそうなるよな。でも人の心を持たない
「蹴りはしなかったのですが、倒れた人に向かって罵倒が続きました」
「引くわ、それ」
「で、もうこんな所ではやっていけないと思って医学部に入り直したんです」
さすがに倒れた人にまで罵倒するお医者さんは見たことがない。
医学部に入ったのは正しい選択だったと思う。
「ただ、
「人間性にいささか問題があったというだけの事なわけね」
「それは否定できません」
やはり
「先生の話を聴いていると、そこの研究所の人たちは2x2のマトリックスに分類されるわけか」
「そうですね」
さすが理系人間、話が速い。
2x2のマトリックスというのは、業績の有無と人間性の良し悪しでの4分割だ。
「そうすると4つの分類の中でマジョリティーはどれになるのかな?」
「業績は無いのに性格が変わっている人たちが1番多かったです」
「おお、やっぱりそれが1番多いのか! じゃあマイノリティーは」
「業績も人間性も素晴らしい人です」
「そんな人もいるのか」
「ごく少数だけど、いたことはいました」
ということは、いかに人間性に問題があっても業績を上げていた
厳しい言い方をすれば、業績を上げることのできない基礎研究者はいくら人間的に素晴らしい人であっても存在価値がない。
これを表現した言葉が "Publish or perish." だ。
そのまま「パブリッシュ・オア・ペリッシュ」で日本人研究者にも通じる。
直訳すると「論文を書くか、さもなければ
ちなみに "Publish or perish." という言葉が生まれたアメリカでは、業績を上げられなかった研究室が丸ごと消失して皆が職探し、というのは普通だった。
そういった事にまつわるドタバタ劇はあらためて語る機会があると思う。
それはそうとして。
ちなみに他学部を卒業してから医学部に入り直すというのは珍しくない。
オレのクラスメートなんか3分の1が他学部卒だった。
医学部卒業後の進路が自由だった当時と違い、今は2年間の厳格な初期研修制度が存在する。
30代とか40代で当直とか救急とかに体力がついていくのか、それが問題だ。
ただ、こういうのは年齢や性別よりも個人差の方が大きいので、何事も先入観で決めつけない方がいい。
夜に寝なくても平気なオバサンとか、やたら救急の好きなオジサンとか、そういう人はいくらでもいる。
そんな事より、この研修医が総合診療科にいる間に、かのボスをはじめとした変人のエピソードをあと
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