第499話 リベンジする男 1

事の発端は、ある中年男性の血管吻合けっかんふんごうだった。


病名は、モヤモヤ病という。

なんとも不思議な名前だが脳内の血管がモヤモヤして見える事からそう呼ばれる。

日本人に多い病気で、欧米には滅多にみられない。

だから、日本でモヤモヤ病と命名された。


この病気は頭蓋内の内頚動脈ないけいどうみゃく中大脳動脈ちゅうだいのうどうみゃくといった主要血管が年月とともに徐々に狭窄きょうさくし、やがて閉塞へいそくする。

それを補うようにモヤモヤした血管が発達するのだ。


主要血管が閉塞するから脳梗塞のうこうそくを起こしやすい。

いっぽうモヤモヤ血管は脆弱ぜいじゃくなので破綻はたんしやすく脳出血も起こすという難病だ。


モヤモヤ病に対しては血管吻合による治療が行われる。

頭皮を栄養する浅側頭動脈STA中大脳動脈MCAの枝に吻合する直接バイパスと、脳表に硬膜や筋肉を置く間接バイパスだ。

モヤモヤ病の患者は、単に硬膜や筋肉を脳表においただけでも新たな血管が自然にできるのだが、それには年月がかかる。

そこで即座に効果の出る直接バイパスを併用する事が多い。


問題は、モヤモヤ病の直接バイパスが技術的に難しい事にある。

というのも脳の主要血管が徐々に閉塞するのでその枝も細くなってしまうからだ。


2ヶ月前にこの患者を手術した時も苦労した。

浅側頭動脈STAが立派であったにもかかわらず、吻合先の中大脳動脈MCAは細くなっていて、手術は困難を極めたのだ。

ドプラーで血流音を聴くと、ある瞬間にはよく通っているが、次の瞬間には音が悪くなってしまう。

だから吻合した糸を切ったり縫い直したり。

そんな事をやっているうちに時間が経ち、待機している家族には余計な心配をかけた。

ドプラーの音が良い段階で手術を終了することができたが、術後のMRIでは通ってなさそうだ。

もちろん直接バイパスだけでなく、間接バイパスも追加して保険をかけているので、時間はかかるが患者の脳血流は改善するだろう。


でも、脳外科医としてのプライドはズタズタだ。

もうこの仕事をめたくなった。

オレなんかが背伸びして戦える相手じゃない、そういう気持ちが湧き上がってくる。


が、この患者、反対側の手術もしなくてはならない。

即座に効果を得ようとすれば間接バイパスだけでなく、やはり直接バイパスも必要だ。


オレがやるべき事は1つ、ひたすら練習する事のみ。

ということでトリの手羽先てばさきを使って顕微鏡手術の練習を行い続けた。

手術室にトリを持ち込むわけにいかないので、もっぱら私物の実体顕微鏡を使う。


もう何百本の手羽先を使ったか分からない。

トリというのは足が早く腐りやすい。

だから冷蔵庫に入れていてもすぐに悪臭を放ち始める。


オレはスーパーで手羽先4本セットを買って来たら、そのうちの1本を練習に使い、他の3本は冷凍して後日に使用する。

そして練習に使った手羽先は悪臭発生予防に再び冷凍庫に保管しておくのだ。

そうすれば週2回のなまごみの日に捨てることができる。

たまたま捨てることができなくても冷凍しているから、その次のゴミ収集日に捨てても構わない。


小さな冷凍庫のスペースがすぐに手羽先で一杯になるので妻には眉をひそめられた。

が、世間の冷たい目を乗り越えてこそ、物事は成就じょうじゅするってもんだ。


毎日練習するたびに、細かな手技や手術機器、使う材料を見直した。

いくら練習を重ねても完成という事はなく、改善すべき点は常にある。


いよいよ手術前日。

最後の練習ですべての手術操作がスムーズにいき、「オレは一皮剥ひとかわむけたぞ」という感触を得た。


そしていざ本番!


静かな闘志とともにオレは手術にのぞんだ。


(次回に続く)

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