第497話 泣き出した女

 その女性患者は泣き出した。


 オレは診察室の透明カーテンの向こう側に席をうつした。

 もうコロナがどうとか、言ってられない。


「どれどれ、先生に言ってごらん。誰かにいじめられたのかな」

「いえ」

「じゃあ、何かひどいことを言われたんだ」


 彼女はコックリとうなずいた。


「職場のおつぼねさんに言われたのかな? ちょっと美人だからっていい気になるなって」


 彼女は首を振った。


「お局さんじゃないって事は……ひょっとして社長さん?」

「ええ」

「ひゃあ、社長さんに言われたら社員としての立場ないじゃん!」


 しかし、何を言われたかが気になる。


「社長さんが何て言ったわけ?」

「それもカルテに書くんですか」

「書かない、書かない。明日あしたになったら忘れてしまうし」

「『これだから専門学校卒はダメだ』みたいな事を」


 彼女は一層泣き出した。


「そんな事を言われたのか。専門学校って何年間?」


 彼女は黙って指を3本出した。


「3年間か。それで試験を受けて資格なんかも取ったわけね」

「〇〇って資格なんです」

「でも社長さんにそんな事を言われたら、自分の人生を丸ごと否定されたみたいな気がするよな」


 ここはむしろ言語化するべきじゃなかったかな。


「よし、先生が会社に乗り込んで社長さんを泣かしてやろう」


 黙って顔の前で手を振られた。

 当たり前だけど。


「じゃあ失礼な事を言ったおびに給料を2倍にしてもらおう」

「そっちの方がいいです」


 どうやらメンタルの問題が体の不調になっているのは間違いなさそうだ。

 後はどのくらい重症かを判断しなくてはならない。


「御本人も薄々気づいていると思うけど、心の問題が倦怠感けんたいかんという形になっているんじゃないかと思うよ」

「ええ」

「だからメンタルクリニックを受診するというのも1つの手だね」

「どんな事されるんですか?」

「いやいや……単にお話を聴いて薬を出すんだと思うよ」

「……」

「注射とか痛い事は何もしないから心配しないで」


 小児科ですか、ここは。


「絶対にメンタルクリニックに行くべき状態だってほどじゃないと思うけど」

「……」

「必要になったら紹介しよう」

「……」

「とにかくそんな会社はめちまえって言うわけにもいかないよな」

「……」

めても次が簡単にみつかるか分からないし」


 彼女はうなずく。


「こうなったら永久就職だ、ハイスペのイケメンを捕まえようぜ」

「そんな人、いません」

「じゃあハイスペックのフツメンにしておくか、浮気の心配も減るし」


 イケメンはとかく誘惑が多い……んだろうと勝手に想像してみる。


「先生は結婚しているんですか?」

「うん、ウチに帰ったらあれこれ指図さしずされて大変よ」

「でも指輪してないじゃないですか」

「よく見てるなあ。外科医は指輪をしないわけ、手洗てあらいの時に失くすから」


 ある高名な脳外科医は5回も指輪を失くして、そのたびに新たに買っている。

 宝石屋にとってはいいお得意さんだ。

 今のところ、奥さんにはバレていないようだけど。


「とにかく社長さんの言った事は気にしないで元気だしてよ」

「はい」

「一応、2ヶ月後に再診予約を入れておこう。それまでに元気になっていたら黙ってキャンセルしてもらっていいから」


 考えてみれば学歴というのは現代社会における身分制度みたいなものかもしれないな。


 その一方で、知的職業ですら学歴がアテにならなかったりする。


 アップルの創業者、スティーブ・ジョブズは大学中退だし、将棋の藤井聡太七冠に至っては高校中退じゃないか。

 でも、もし「俺はジョブズや藤井より高学歴だぞ」と自慢する奴がいたら、恥をかくのはそいつの方だ。


 人を学歴だけで判断してはならない。

 誰に対しても、しかるべき敬意を払うべきだと思う。


 分かってもらえるだろうか、社長さん?

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