第495話 英語で説明する男

 カナダ人妊婦が腰痛で入院した事は前に述べた(第493話 「手抜きをする男」)。

 聞くところによると言葉の壁でフラストレーションがたまっているそうだ。


 コロナ前にはあらゆる国からの観光客が患者として来ていたからスタッフもスマホ翻訳やオンライン通訳を駆使して対応するのが日常風景だった。

 が、この3年間で見事にそのスキルが消失したのが悲しい。


 で、医師も看護師も英語でのコミュニケーションがさっぱりだ。

 そもそも外国人慣れしていない。


 で、患者夫婦は「英語の通訳をおいてくれ」と言い出したそうだ。

 でも、病院にそんなシステムはない。

 だから有料のオンライン通訳を使うしかない。

 1回が5,000円かかるといったら夫婦は沈黙した。


 電子カルテにはそのやり取りが延々と記録されている。


 その一方、これまで拒否されていた腰椎のMRIを撮影する事になった。

 旅行保険でカバーされると言う事が判明したのかもしれない。


 そこでオレ自身が病状説明をすることにした。


 オレとて英語が得意というわけではない。

 だから、あらかじめ必要な英語の言い回しを調べておく。


 腰痛 low back pain

 腰椎椎間板ヘルニア lumber disc herniation

 有害だ harmful

 異物 foreign body

 脊髄神経 spinal nerve

 痺れ感 numbness


 簡単そうに見えるこれらの英単語も、実際の会話では中々出てこない。

 何事も出来る限りの準備しておくべきだと思う。


 早朝の空き時間を利用して病室を訪問した。

 説明しやすいよう、手には実物大life sizeの腰椎プラスチック模型を持っておく。


 オレは無意識にでっぷり太った中年のオバチャンが寝ているところを想像していた。

 でも実際の患者は眼鏡をかけた知的な感じの若い白人女性だった。


「こんちわ、私は総合診療科general medicineの医師です」

「よろしく」

「自分の病状が心配だと思って説明をしに来ました」

「ありがとう」

「腰だけじゃなくて脚にまで痛みや痺れnumbnessがあるんですね」

「左側なの」


 我儘わがままを言うタイプには見えない。


「早速ですが、これが腰椎です」


 オレは彼女の前にプラスチック模型を置いた。


「私の推測ではここにある椎間板lumber discが少し脊柱管spinal canalの中に飛び出しているんでだと思います」

「ええ」

「それが脊髄神経spinal nerveを圧迫して腰が痛くなったり、左脚が痺れたりするわけですね」

「なるほど」

「症状が軽いので、たぶん手術する必要はありません」

「手術はしたくないわ」

「飛び出した椎間板は免疫システムに異物foreign bodyとみなされて自然に吸収されます。それとともに痛みも痺れも改善するでしょう」

「良かった」

「実際に椎間板が飛び出しているかどうかを見るのがMRIです。どんな検査か御存知ですか?」

「以前、脳のMRIを撮ったことがあるわ」


 おっ、頭部MRIか。

 脳腫瘍かな、それとも血管障害か。

 にわかに脳外科医としての職業的興味が頭をもたげる。


「どういう疾患か、お聞きしてもいいですか?」

多発性硬化症multiple sclerosisよ」


 なんだ、多発性硬化症か。

 そいつは神経内科疾患だし日本人には少ないからオレには縁のない病気だ。


「分かりました。何か質問がありますか」

「いくつかお聞きしたいのだけど、いいかしら」

「もちろん」


 異文化の人からの質問というのは想定内のものもあれば想定外のものもある。


「妊娠しているけど、MRIは有害harmfulではないのかしら」

「ありません。貴女にもお腹の中のベビーにも」

「だったらいいんだけど」

「私は脳外科医でもあるわけですが、胎児の水頭症hydrocephalusの診断などにMRIはよく使いますよ」


 重ねて質問が来た。


「撮像時間は短くするわけ、それとも通常通り?」

「通常通りですね」


 次が想定外の質問だ。

 腰椎の模型を指さしながら尋ねられた。


「ここにある椎間板の異常で、後ろ側が痛くなるというのはどうして?」


 そんな質問をされたのはこれまでの人生で初めてだ。

 そもそも椎間板ってのは十分に背中の一部といっていいのだと思うけど。

 瞬時にそれらしい答えを考えた。


「神経がネットワークを作っているので、ここの痛みを後ろ側で感じることもあるのです」

「ふーん」

「検査は何時からかしら?」

「御免なさい。それについては私は知らなI have no idea.いのです」

「オーケー」


 全体としてロジカルな会話を好む人のようだった。

 英語圏English speaking worldの人間ならでは、というべきか。


言葉の壁language barrierでフラストレーションもあると思いますが、今回の入院が良い思い出になる事を願っています」

「ありがとう。皆さん親切だし、良い思い出になるよう努力するわ」

「じゃあ私はこれで失礼します」

「時間をとってくれてThank you for your time.ありがとう」


 想像していたのとは全然違う、落ち着いた大人の女性だった。

 カクヨムのネタにもなるし、オレにとってはありがたい存在だ。


 それにしてもあらかじめ英語の言い回しを調べておいたのは良かった。

 オレ自身の英語の勉強にもなったし。

 どんな事でも実戦というのは得難い機会だと思う。



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