第492話 軽く扱われる男

「困るんです、何とかして下さい」

「どういう事なんだ、それは!」


左右からそう怒られたのは脳外科外来でのこと。


患者は何年もフォローしてきた未破裂脳動脈瘤の高齢男性。

徐々に認知症みたいな症状が出てきて生活に支障がある。

それで付き添ってきた弟夫婦に「困るんです」と言われたのだ。


ずいぶん理不尽な事を言われたわけだが、怒ってはならない。

ここは出来るだけ冷静に答えよう。

そもそも患者家族ってのは言いたい事をうまく表現できない事がほとんどだ。


おっしゃりたいことは、徐々に記憶障害が進行してきたから治してください、ということですよね」

「そうなんですよ。今でも色々と困っているのに」

「まず、認知症ってのは脳外科の病気ではないんですよ」

「ええっ、脳の病気じゃないのか!」

「脳動脈瘤も認知症も脳の病気ですが、サッカーとラグビーくらいには違いますね」


このたとえがお三方さんかたに通じただろうか。


「それに、認知症ってのは治らないんです」

「じゃあ、どうしろっていうんだ」

「まずは治すことをあきらめましょう」

「そんな馬鹿な!」


ここで、馬鹿はそっちだ、などと言ったりしら大変な事になる。


僭越せんえつながら弟さん夫婦は自分たちのニーズを全く分かっていないのだと思いますよ」

「何だと」

「私が代わりに言ってあげましょうか?」


なんでオレがテレパシーを駆使しなくちゃならないんだ。

もとよりそんな能力は持っていないけど。


「まず、認知症が治らない病気だとしても、『なる病気で記憶障害が起こっていて、そいつは治療可能な病気じゃないか』という事を知りたいんですよね」

「そんな病気があるんですか?」

「ありますよ。甲状腺機能低下症とかビタミンB1不足だとか。特にお酒をよく飲む人はビタミンB1不足になりがちですから」

「兄は結構飲む方だからな。ビタミン不足だったのか」

「まだ決まったわけじゃありません。弟さんも飲む方ですか?」

「飲むといっても晩酌に2合くらいで……」


本当のアルコール摂取量は自己申告の3倍とか5倍とか言われている。

下手すると毎日1升飲んでいるってことか。


「やめた方がいいですね。兄弟ってのは体質が似ていますから」

「1合くらいだったら駄目かな」

「お酒を飲まなかったら死ぬ病気にかかっているわけじゃないんでしょう?」

「そうなんだけど」

「まあ、今はお兄さんの話をしているんで、本題に戻りましょう」


そういうと弟はホッとした顔になった。


「まずは治る病気だったら治す。それでも治らない病気だったらどうするか、それが問題ですね」

「治らない病気って、そんなあ!」

「治るか治らないか、病気は二択です。治らない病気の事も想定しておくべきだと思いますけど」


当たり前の話をするのが大変なのはいつもの事。


「もし、お兄さんの認知症が治らない場合、次の1手をどうすべきか。私にきたいのはそういう事ですよね?」

「そ、そうです」


その時、外来看護師が診察室にやってきた。


「〇〇さんが急いでいるそうで、『まだ待つんか!』って言われているんです」


知らないうちに時間がっていた。

こんな調子では午前中20人の外来患者をさばけない。


「他の患者さんがお待ちなので、そろそろ……」

「でもぉ」

「問題点を整理すると2つです。治る病気だったら治す、治らなかったら色々な制度を利用して対処する。それでいいですか?」

「ええ、まあ」

「先ほども申し上げたように、認知症は脳外科の病気ではないので、神経内科に院内紹介をしようと思います。明後日だったら外来をしているようなので手配しておきましょうか」

「今日のうちに診てもらえないかな」

「定休日のラーメン屋を無理矢理あけさせようってわけでしょうか」

「いや、そういうわけでは……」

「そんな事したら親父にラーメンスープにされてしまいますよ」

「それも困るな」


本気にしないで、ギャグだから。


それにしても医療機関ってのはラーメン屋よりも軽く扱われているような気がする。


3割負担でも再診料の患者の支払いは219円。

ラーメン1杯より安いんだから軽く扱われるのも当然かもしれない。


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