第478話 付箋を貼られる男

「先生、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」


 院内のコンビニで内分泌内科の研餅けんもち先生に呼び止められた。


「実は先日、電子カルテの付箋ふせんの事で注意されまして」


 付箋というのはちょっとした電子的なメモだ。

 もっぱら対応に気をつけるべき患者について書かれている。


 内分泌内科の付箋で多いのは「当科ではこの患者の診療はできません」というもの。

 というのも、糖尿病患者の中には医師の指示を守らない人間が多いからだ。

 指示を守らないだけでなく、暴言を吐く者もいる。

 怒鳴られた担当医が「じゃあ、勝手にしてください!」となり、付箋ふせんが貼りつけられるのだ。


 オレが総診の外来をしている隣が糖尿病外来だけど、しばしば怒鳴り声が聞こえてくる。

 時には声が大きすぎて、自分の患者の声が聴き取れなくなるくらいだ。

「またか」と思うが、担当医は忍耐強く血糖コントロールの必要性を説いている。


「医療安全の担当者に『診療できません』というのは診療拒否にあたるって言われましてね」


 研餅けんもち先生は心底困っていた。


 というのも電子カルテは導入されて20年近くになる。

 10数年前に誰かが貼った付箋を見かけることも珍しくない。

 その「誰か」はとうの昔に異動していなくなっている。


「特に救急の時にですね、『当科では診療できません』とあったら担当医が応需すべきか否か迷ってしまうと指摘されたんですよ」


 確かに意識障害で救急隊から連絡があったときに、内分泌内科の「当科では診療できません」があったら困るだろう。

 その意識障害は脳卒中かもしれないが、高血糖かもしれないからだ。


「先生方の気持ちは良くわかりますよ」


 オレは研餅けんもち先生を励ますように言った。


 脳外科外来にも付箋を貼られた糖尿病患者が通院している。

 皆、それぞれに理由わけありの強者つわものだ。


 ある患者は診療時間に関係なくやってくる。

 受付が「今日はもう終わりました」と言うと怒り出す。

「診療時間の間に来ていただかないと……」と受付に言われても「薬がなくなったんや。どないしてくれるねん!」などと屁理屈へりくつをこねる。

 そりゃあ付箋を貼られるわけだ。


 オレは研餅けんもち先生に言った。


「本当に診療しなかったら医師法19条の応需義務おうじゅぎむに違反するかもしれないけど、『診療できません』という付箋を貼るのは別に何にも違反しないんじゃないですか?」


 彼の表情が明るくなる。


「そ、そうですよね!」

「だいたい意識障害の原因が血糖値700の高血糖だったら先生方も対応してくれるんじゃないですか?」

「もちろんです」

「じゃあ、付箋はそのままにしておいていいと思いますけど」

「分かりました」


 そもそも糖尿病担当医は院内でも最も忍耐強い人たちだと思う。

 彼らがを上げるくらいだから余程のキャラクターなんだろう。


 付箋付きの人たちは、治療で元気になった途端、スタッフに暴言を吐いて勝手に退院する事が多いが、そんなもんだと思っておけば腹も立たない。


 大切なのは心理的距離を保っておく事だ。


 そう考えると付箋の方にも「いきなり罵声ばせいを浴びせられる事があるので心のガードを上げておきましょう」とでも書いておくべきだな。


 これだったら診療拒否だと非難される事もないし。


 まるで「いきなりウンコを投げつけてくる事があるので注意して下さい」という看板をつけられた動物園のゴリラみたいなもんだな。



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