第471話 膝の痛くなった女

 総合診療科から退院して2週間の患者。

 90歳台の一人暮らしの女性だ。


 入院までは右膝が痛いながらも何とか自立していた。

 が、入院後に調子が悪くなった。


 入院時の病名は菌血症だった。

 血液中からグラム陽性球菌が検出された。

 感染性心内膜炎だったらいけない、と大量の抗菌薬を長期投与する計画を立てた。

 が、あっという間に感染は軽快し炎症反応も陰性化した。

 何だか肩透かしをくらったが、治療を続ける意味もないので退院とした。

 担当医は経口抗菌薬を処方していた。


 で、退院後の最初の総診外来だ。


 遠くから来た娘が付き添っていた。


「何が何だかわけが分かりません、今まで病気したことがないので。今回の入院中に介護認定の申請もしたのですが」


 知っているよ。

 介護保険主治医意見書を書いたの、オレだから。

 たまたま担当医が不在だけど急ぐからといって代わりに書いた。


「それでかかりつけ医をどうするかというのでケアマネさんから推薦されたのが海抜医院の先生で」


 この人、近くの山麓クリニックから紹介されてきたのだけど、ケアマネが推薦したのはちょっと遠くにある海抜医院というところだ。

 なんでも24時間で対応してくれるということで。

 どちらも内科だけど、この人の最優先は膝だろう。


「どちらの医院でも私はいいのですけど、1番対処すべきは膝じゃないですか?」

「こちらの病院の整形外科で診てもらうわけにはいかないでしょうか」

「うーん、手術する人しか診療していないんですよ」


 本来、整形外科ってのはそうあるべきだな。

 名称に「外科」が入っているくらいだし。


「よくなるんだったら手術でも何でもします」

「新品になると思っていたらそれは間違いですね。人体は自動車とは違いますから、新しい部品と取り替えるってわけにはいかないんですよ」


 そういうと娘は落胆していた。


「飲み薬や湿布、注射でうまくいかない。もう最終手段として手術しかない、と地域の整形外科医が判断したときにウチに紹介してくるんですよ」


 オレの説明を理解してくれているかな?


「で、皆さん、すごく手術に期待するんですけどね。余計に悪くなってガッカリして帰る人も沢山いるわけですよ」

「なんですって!」


 良かれと思って行った手術で逆に悪くなるなんてのはいくらでもある。

 でも娘は何とかウチの整形外科で診てもらいたいらしい。


「以前にこちらの整形外科にかかっていた事があるんですよ。すごく親切な先生で。もう居なくなったけど」

「えっ、何という名前の先生ですか? 異動先が近くならそこに行ってもらっても……」

「忘れてしまいました」

「ひゃあ、そりゃダメだ。こっちが忘れたら向こうも忘れてますよ、きっと」


 患者にとっては数少ない担当医だけど、医師にとっては何百人のうちの1人だ。

 患者が覚えていなくて医師の方が覚えているなんてことはあり得ない。


「まあ、お母さんも90歳ですからね。いつか病気になるってことは分かっていたけど、今まで考えないようにしてきたわけですね」

「そうなんですよ」

「で、ついに現実を突きつけられてしまったって事か」

「ええ」

「膝の痛みをマシにして何とか自分の事を自分でできるようにしておいてから、娘さんの方に呼び寄せるってのが1つの方法かもしれませんね」

「主人にも相談してそれを考えているんですが。それでも年内にできたらいいほうかと。私も仕事がありますので」


 この人の場合は高齢者向けの施設に入ってもらうってのもありなんじゃないかな。


 必ずいつかは突き付けられる老いと病気。

 個人レベルでの災害とか戦争といってもいい。


 あらかじめ準備万端にしておくのも難しい。

 でも、心積もりだけはしておいた方がいいと思う。

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